天気 の 子 須賀。 天気の子【考察・感想】須賀圭介(CV小栗旬)の妻は晴れ女だった?指輪の意味も

【天気の子 ネタバレ考察】須賀さんが窓を開けた理由・帆高を止めた理由とは?

天気 の 子 須賀

ネタバレ! クリックして本文を読む 以下ネタバレ含みます。 須賀という男の存在は、大切な人を諦め、世界の平和を優先することを選んだ場合の「未来の帆高」をうつした存在だ。 須賀が左手に着けている二本の指輪のうち1つは、亡くなった奥さんのもの。 事故で亡くなったと話していたが、おそらく須賀の妻も晴れ女だったのではないか。 陽奈同様、晴れ女として力を使いすぎたせいで消えてしまったのではないだろうか。 陽奈が消えた時、指輪が空から落ちてきた。 須賀の妻も消えた時に、指輪が空から落ちてきた。 須賀はその指輪を、後悔を抱きながら左手に着け続けているのではないだろうか。 須賀の娘は喘息持ちで、雨の日に発作が酷くなりやすい。 娘のために、妻は天気を晴れにし続けた。 その代償として妻が消えてしまう危機を感じていながらも、須賀自身咎め切れなかった。 結果妻は消え、須賀は止められなかった自分自身に責任と未練を感じながら、妻の形見(指輪や冷蔵庫のメモなど)とともに生きてきた。 オカルトものに関心があり、それを仕事にしているのも、妻のことがあったから、須賀自身も未知の力を誰よりも信じているからなのではないか。 妻の代わりに新たに「晴れ」にしてくれる陽奈が現れた。 力を使い続けた後の結末は知っていた。 しかし雨が続くことは娘の病状にも影響がある。 そのため須賀の中には様々な葛藤があった。 あの時の須賀の無意識に溢れた涙は後悔や葛藤、その全てを表しているのではないだろうか。 あの廃墟に須賀がいたのは、全てを知っていたから。 ある意味須賀という存在の答え合わせのシーンだ。 最期は帆高に自分のように後悔してほしくないと思い、助けたのではないか。 作中、須賀という登場人物の背景に踏み込む直接的な解説はなかったが、私は須賀という登場人物をこのように捉えた。 ベラベラと登場人物が自分自身について話し、過去を回想するシーンなどが下手になかったことは良かった。 (君の名はは、解説や伏線回収がしっかりしてたから万人ウケしやすいわかりやすい作品だったのだろう) 追記 最期、帆高の選んだ結末に関して賛否両論あるが、私はこのラストで良かったと思う。 「もう大人になれよ、少年」 かつて自分自身を押し殺し「大人の選択」をした須賀と、大人にはなりきれなかったが真っ直ぐに大切な人を選んだ帆高。 世界の形が変わったとしても、誰かにとって不幸になる形でも、自分の世界に必要不可欠な人。 その人と共にならそんな世界でも生きていけると思えること。 唯一無二の大切な人がいる者なら、帆高の選んだ結末を「ワガママ」の一言で終わらせることが出来ず、理解し、心打たれる部分があるのではないか。 天気の子は、「愛」という視点では君の名はを超える良作だと感じた。 上記説が合ってるか合ってないかについて。 ただこの説を信じるものとして新たに降りてきた考察がもう一つ。 おまけとして追記しておきます。 「そもそも須賀はなぜ親権を奪われているのか?」 妻が「本当に」事故や病気など現実的な亡くなり方をしていれば、親権はそうそう奪われないのではないか。 虐待・ネグレクトなどのよっぽどの問題がなければ、ふつうそのまま母不在でも父と子で暮らしていけるはず。 子への愛情が十分にある須賀から親権を祖母に譲ったとは考えにくい。 現に納得せず親権争いが続いている。 上記説だと話がうまくまとまる。 妻が消えたのだ。 冷蔵庫のメモや写真などからも夫婦中が悪かったとは考えにくいためやはり単なる失踪ではなく、天に消えたと考えられるのではないか。 しかし周囲からは理解できない現象なため、失踪もしくは事件に巻き込まれたと考えられた。 当時須賀も疑われた。 事件でないにしても、妻が消える原因が須賀にあると周囲の人々は考えた。 そのため少しでもグレーな須賀からはこどもは引き離された。 うん、考えられなくもないと思います。 自分でもハッとして、おもしろいかなとおもったので追記で。 おもしろい思考を掻き立てられるコメントもちらほら。 本当にありがとうございます。 以下のコメント欄のほうでも、ちょこちょこ書ききれなかった考察(須賀のみにこだわらず)を追加していっているので、興味のある方にはぜひ読んでいただきたいです。 今回の私の考察レビューは以下のコメント欄内での考察も含めて、1つのレビューということにしたいと思います。 また、みなさんの感じたことや発見などもさらに聞かせていただけますと私自身の解釈もより広がります。 私は文章を書くことが仕事ではないので、つい長々としたわかりにくい文章で表現しがちです。 (誤字脱字もちらほらありますね。 しかし、その解釈をうまく言葉にすることができなかったり、周囲の人とうまく共有することができなかった人がその中にいるとしたら、私の考察レビューがその言葉・気持ちをうまく代弁できていれば幸いです。 遅くて急に失礼します。 須賀神社に五回も通っているのに今気づきました。 須賀さん。 ここからネーミングしているのですね。 四谷にあるこの 神社。 行くたびに外国の方々の割合が増えている!新海監督の国際性を象徴している。 地方の方は一回行ってみるのをお勧めします。 さて私が言いたいは沢山ありますが、二点にします。 まずここの元のshokotamalさんの誠実さと博識さです。 いちいち、この膨大なコメントに対応している姿勢が素晴らしい。 しかも専門外であろう神道、喘息、指輪のサイズなどに誠実に答えている。 時には関係者のように扱われているがそれにも誠実に答えている。 敬服します。 もう一つは新開監督が須賀の妻イコール天気の子説を否定するか否か? 話は飛ぶが北山修さんがその著書のつで、中島みゆきさんと対談している。 その中で北山さんは、創作の核心について質問をする。 その度にみゆきさんの 答えはこうだ。 「それはねー教えてあげないの」 そういうやりとりが続いて北山さんの言った言葉が最高だ! 「教えてくれなくてありがとう」 感動した。 みゆきさんが吉田拓郎さんに提供した曲で「永遠の嘘をついてくれ」という曲がある。 永遠の嘘をついてくるた。 映画も音楽もリリースした瞬間から受けての物! 新海監督はこの説を、否定はしない。 けど肯定もしない。 むしろ楽しむだろう。 ここまで行間を感じさせるとは・・・ 改めて言うが、傑作だ。 ご自身のレビューを立ち上げていらっしゃるようなので、y. ネタバレとあったので、ここのレビュー読まずに鑑賞してきました。 どの考え方が自分に馴染むかは敢えて言及しません。 何が傑作か? コメント内ですでに記載したことの簡素なまとめは以下です。 須賀は晴れ女の力や人柱の力について半信半疑であり、真相を調べていた。 陽奈が晴れ女だという噂を聞き、半信半疑だが自分の目でその力が本物か確かめたかった。 実際に陽奈が本物の晴れ女だとわかり、晴れ間を見て妻の指輪を触った。 この時、陽奈の今後に災いがあるかもしれないということを感じたのではないか。 (指輪を触れる描写が作中2回ほどあるが、そのタイミングは須賀が心の中で罪悪感を感じるタイミングだと私は思っている) 以上です ここ数日で、コメントくださった方々ありがとうございました! 返信遅くなってしまいすみません。 もし既出だったら申し訳ありません。 本当の最後のシーン離れ離れになっていた帆高と陽菜が再会するシーンで空が晴れたような気がしました。 勘違いだったらすみません つまり天気の巫女陽菜と同様《天気の子》帆高になったのでは?と感じました。 ・願いながら神社をくぐり陽菜を助け出し2人で帰ってこれた 陽菜も同じ流れで力を得た ・陽菜を助けに行く道中龍神にあった やはり帆高には龍神系の神がついてる?もしくは宿った? ・雨が好き という観点からタイトルの天気の子という名前も当初、陽菜を指している事かと思っていましたが良い意味で少しズレているのかもと思いワクワクしました。 そんなの分かりきってるよって思ったらすみません。 長文失礼しました。 shotamalさんの考察俺は大好きです。 前記した通り、私は思考の合わない方の書かれたレビューを否定するコメントを書き込みには行かないです。 (おもしろいと感じる意見は今まで通り柔軟に吸収させていただきますし、私自身も意見に賛同する時はその方のレビューを見に行き共感やコメントします) これでもなお「否定的かつ自分的につまらない解釈」が私のコメント欄内に見られる場合は、返信するのも体力使うので、スルーさせていただくのでよろしくお願い致します。 その上でおもしろいと思う考察を自分なりに書いている。 コメント欄にまで出向いて反対意見を押しつけにこないでほしい。 私の解釈を一視点としておもしろいと思ってくださる方からのみ、共感やコメントいただければと思っています。 「自分はこの考察と反対の考えだけど、この視点はこの視点で面白かった」と他者のレビューを尊重できる方は私も求めていますので、ぜひコメントください。 監督のコアなファンではない私が鑑賞後に率直に感じた感想です。 その方のコメント欄に、その解釈を否定して自分の意見を押し出すコメントはしないです。 フィクションはその人なりの解釈をする余地があるものであり、それはそれでその人の感性であり尊重されるものだからです。 自分には合わなかっただけで。 (制作側の意図と異なる解釈であったとしても、製作陣たちは一つの解釈としておもしろがり受け止めてくれるはずです。 なので一観客が他者のレビューに出向いてまで反論してこなくていいと思います。 ) 私のレビュー内で一つの解釈を狭める反対意見がたまに書き込まれますが、私が物語をおもしろいと思う考察は前述した通りです。 この説と反対の内容が書かれたレビューがあることも私は知っており、たまに読んでおり、その上で自分のレビュー内には自分がおもしろいと思う考察を書いています。 合ってても外れても「私の中で」この視点でみるかみないかではだいぶ物語の面白さが異なります。 たいへん興味深く考察を読ませていただきました。 私の感想としては、須賀の奥さんが晴れ女で人柱となって消えた説は『ない』と思いました。 帆高はフラフラになりながら走ってビルに向かっていたので、須賀が何らかの交通手段を使えば先回りは容易。 そんな二人を須賀は許せますかね。 ですから、幼い子供を置いて自分が消える事を選択するとは思えない。 でもそれはどうも違う。 』とあります。 それに、須賀の奥さんが晴れ女で人柱となって消えた設定を盛り込んだ場合、監督のやりたかった事と映画のテーマが今とはかなり違ったものになってしまうと感じました。 あくまで個人的な意見ですので気にせずに。 瀧と三葉が電車ですれ違った場所ってどの辺なんでしょう? 最後の階段は四ツ谷駅から徒歩10分らしいですが。 東京詳しい人いますかね笑 今山手線の路線図を見たんですけど環状線の内側に横向きに路線が走ってるんですね。 でちょうどその真ん中、円の中心付近に四ツ谷があって五反田と巣鴨を直線で結ぶとだいたい四ツ谷と重なりますね。 新宿駅は使えてるので山手線の駒込から大崎までが沈没してるんですね多分。 うーん四ツ谷が沈没してるか微妙だな。 映画の最後らへんに短い間ですが沈没した東京が描かれましたよね。 あの場面でどの辺が沈没しててどの辺が沈没してないのか覚えてる方いますかね。 あとは東京のイケメン男子に託しますね。 ここからは僕の考えですが、陽菜を連れ戻してから数ヶ月経ってるのに水溜まりが出来ている程度なのは不自然だし、電車も止まるはずなので、「ずっと誰かを…探してた!!!!!!」のシーンも、起こりえないと思います。 特に再会したあの階段の下とか水浸しになりそうだし。 それに、瀧が帆高に「プレゼントあげなきゃね!」と言ったり、三葉が帆高に「喜んでくれますよ!」と言ったりしているの、出来杉じゃないですか?監督が狙って瀧と三葉自身が出会えないルートに導いてしまっているように描いているとしか僕は考えられません。 しかも余計に帆高の選択に重みが出る。 あと、新海監督が瀧と三葉の結婚を暗示するために写真を出すような人には僕は思えません。 それこそ君の名は。 に擦り寄りすぎです。 三葉や瀧をガッツリ登場させたのも、ファンサービスではなくミスリードを誘うための伏線でもあると捉えています。 沈没世界でも瀧と三葉はきっと結ばれる!という意見もあるとは思いますが、2人はあんなに強く思い合っていたのに、「あの人の名前が思い出せんの」「お前は誰だ」と、残酷にもすぐ忘れてしまいます。 その2人の思いの脆さも君の名は。 の面白さのひとつだと僕は思っているので、それこそ電車ですれ違いざまに目が合うような大きなきっかけがないと結ばれるのは難しいのではないでしょうか。 なので僕は天気の子はパラレルワールドで、2人は出会えない説を推します。 もしかしたら新海監督もハッキリとは決めていなく、見る人達に委ねますというのが本心かもしれませんが。 覚えてないんですけど瀧の結婚写真は小説にしか出てませんかね? 映画に出てるのか覚えてたら教えてください🙏 以上ですありがとうございました。 須賀が帆高の故郷 島 に行っていたのは、いつか娘と暮らせるようになった場合に空気がキレイな場所を探してのことだと想像してたのですが、それはちょっと的外れですかね…。 (東京が元に戻るというおばあちゃんのセリフをええように解釈) CMや前作の影響で小学生も多数来場することが予測される映画で序盤からいきなり風俗店に関するアルバイトとかちょっといきなり攻めてるなーと思いまして。 上映開始前から海外への配給も多数決まっており、あまりダークな部分を出すのは日本にとってマイナスなイメージを外国の方に抱かれてしまうと危惧してしまいましたが、映画のロケーションが日本全国だけでなくここまで東京だけにピックアップしてるのも東京五輪前に東京はキレイなところだけではないということも海外に伝えるという意図があったのかと個人的に好き勝手妄想させてもらいました。 こうやって間違ってるかもしれませんが、各々で色々と想像させてもらえるのが新開誠監督作品の良さです。 ろまんさん なぜ人柱になったかなどについて「私自身の」考察はコメント内ですでに記載しているのでそちら参照ください。 そして私自身、この映画の関係者ではないのであくまで私の推測でしか話はできないことをご了承いただきたいです。 私自身の「考察」を単に知りたいのであればお応えできますが、映画設定の「真相」を奥様がお求めでしたら、映画関係者の方に直接お問い合わせしてください。 (対応していただけるかはわかりませんが) 以下はあくまで私の考察です。 日本全国各地、どこでも雨はほぼ等しく降りますよね。 夏の沖縄や山々に囲まれた田舎なんかは全国的に比較して雨が多い地域かもしれませんが、それ以外の場所だと大体どこも雨が降る頻度ってさほど変わりませんよね。 引っ越すことで回避したりなにか状況が変わるものではないから引っ越さなかっただけではないでしょうか。 (日本国内の引っ越した先で東京より雨の頻度が減る「保証のある」場所はないのではないでしょうか。 あるとすれば国外の砂漠地帯くらいでしょうか。 砂漠に行ったらいったで砂埃すごそうですね。 ) 過去の東京の天候が、全国比較して特別悪かったという描写はなかったので。 晴れの日はいいとして、雨が降った日で娘の発作がある日は力を使って晴れにしたのかと。 その状況が重なったときは、同様に繰り返したのかと。 一時的なお天気が娘の病状(酷い場合は生死に関わる)を左右するものであり、自分自身に晴れにする力があるとしたら、私自身力を使っちゃうのかなと思いましたけど、そう思わない人も中にはいるのかもしれませんね。 陽奈が得意げに晴れにしていたように、須賀の妻も陽奈同様に晴れにし続けた代償は世界のバランスが崩れるギリギリまで気がつかなかったとも考えられます。 (気がついた時は時すでに遅し。 ) 須賀の母が天気の子だった設定前提での心理状況も「私自身の考察」は前記してあるのでそちらを参照ください。 上記の考察で私は特に不備を感じず、フィクションなりの根拠を考えながら楽しめています。 しかし奥様がどうしても「有り得ない」と思う設定なのであれば、私の解釈を読むことはそもそも合わないと思いますので、読まれない方がよろしいのかもしれません。 ろまんさん コメントありがとうございます! 第二次世界大戦後は、石炭を主要エネルギーとした工業復興により、各地で降下ばいじんや硫黄酸化物を主とする大気汚染問題による呼吸器障害が問題であったこと、さらに当時は吸入ステロイドによる治療がなかったことから、喘息患者は特に呼吸状態悪化しやすく、都会から田舎に綺麗な空気を求めて逃げてくるなんて話も当時はたしかにありました。 しかしそんな話はすでに戦後の大昔の話です。 現在の日本においては大気汚染も基準が設けられていることや、吸入ステロイド薬が普及していることから、喘息患者だからといってクリーンな空気を求めてわざわざ田舎に越してくるなんて話はすでに絶滅した話となっています。 現在の日本で、きちんと治療を受けている喘息患者が都会に住んでいたとしても、都会の空気が発作に関わるということはほぼないかと考えられます。 (あるとすれば長期間未治療の喘息コントロール不良の患者。 その場合は引っ越すなんてことせずにまずはきちんと治療受けましょう。 ) よってきちんと治療を受けている患者が発作を起こすとしたら、現代では風邪や気圧の変化などによるものが大半と考えられます。 以上の話+須賀の家庭はきちんと治療を受けていて、発作も雨が降った時などの気圧の変化による場合に限られ現れる様子であったことから(治療をしており、普段の生活を送る分にはコントロール良好)、都会から引っ越すというのは特に解決策ではないため引っ越さなかっただけかと考えられます。 つい、奥さんのおっしゃったことが引っかかってしまい、長々とした説明をしてしまいすみません! shotamalさんの考察や、ここに書かれている みなさんの考察を見て、今日観てきたのですが、モヤモヤ一人で考えていた感じたこと疑問に思っていた事が解消しました。 皆さんの考察を拝見していると、よくここまで描かれていない背景を豊かに想像できるなと感心してしまいました。 自身が感じたのは、世の中の縮図を垣間見た感じで、「若者の貧困」、「母子家庭」、「ネットカフェ難民」、「大人に搾り取られたこの世の中ので子供たちがこれからどう足掻いて行くのか」など… 皆さんの考察や感想を小1時間w見てもう一度、いや何度か観に行こうと決意しました。 綾人さん コメントと考察ありがとうございます! 君の名はと天気の子の時系列について。 私はこの点については深く考えていませんでした。 私が天気の子の星評価を、十分楽しんだにも関わらず4にしていることは、「監督、君の名は引きずりすぎ!」感を要所要所で感じて、天気の子をオリジナル作品として完成させていなかった点があったからなんです…。 個人的には、君の名は要素は、「てしがわら達の後ろ姿のみ」もしくは「みつはの目から下のみ映す(2人が再開している前提で、すでに結婚しており、仕事のネームの苗字が瀧くんのものになっているなどの工夫もよかったかも)」程度の登場にとどめておくほうが、天気の子という作品に集中でき、かつ、君の名はファンも楽しめる作品なのでは?というのが率直な感想として抱いています。 しかし教えていただいたように、君の名はの2人の再開前と天気の子の時系列を楽しむという監督からのオマケが含まれていると考えると、また一つ違う楽しみ方ができるのだと、コメントをいただき感じることができました! 私は東京の地形に詳しくないので、公園などの位置関係のことはわからなかったですが、たしかにコメントを読んだ限り、2人が再会前の時系列で合っているのかと感じました。 新しい視点の提供ありがとうございます! とても興味深い考察でした! 自分は1回目では、作品を深く理解できず、色んな方の考察、感想を見た後に2回目へ行きました。 2回目は、主役2人より須賀を1番熱心に見ていた気がします。 須賀の奥さん天気の巫女説のこの考察を見て、不可解だった行動に全て納得がいきました。 3回目に行こうと思います。 この考察ではまだ触れられていませんが、「君の名は。 」との時系列はどのようにお考えでしょうか。 これは、「君の名は。 」のラストシーン、2人の再会シーンの時期と一致します。 」の再会シーンと同じ格好。 」ラストシーンが晴れていることに繋がる。 須賀親子の公園のシーンは、三葉登場の直後 以上の点から、今作の三葉登場シーンは、2人の再会直前だったのではないかと考えています。 今作は、沢山感想を語り合って本質が分かる作品ですね! まだ書き忘れていた考察について追記。 それにしてもいちいち追記しすぎですね、すみません。 作中、雨は人々から嫌われ、不必要なものと考えられていた。 そのためラストは人々へのある意味罰として、降り続く雨であった。 しかしそうすると、本来人々の生活に必要な雨というものが悪者に見られるかたちで物語が終わってしまう。 「雨は悪くないんだ」。 最終的にそう思わせるためにも、 ラストに瀧くんのおばあちゃんが「もともとこの辺は海だった。 もとあるかたちに戻っただけだ」と語った。 若い世代が、最悪な状況を考え方次第ではポジティブにも受け取れるようにと、救いの言葉を発したのだと考えた。 そして悪いのは降り続く雨ではないのだということも言葉の裏にあるのではないでしょうか。 この言葉があるかないかで物語の締まりが違いますね。 冒頭の須賀の嫁の母や、瀧くんのおばあさんたちの世代では、晴れだけでなく他の天気も楽しみながら育った世代であり、現代の人々との思考の対比を、物語の序盤とラストで上手く取り入れたのでしょう。 この2人もこの物語には登場させなければならないキーパーソンであったと考えられます。 しゃあさん コメントありがとうございます。 指輪についてはコメント内ですでに解説したとおり、須賀が自分の左手薬指に入るように号数を直したのかと。 結婚指輪というのは、どこのブランドで買っても、太ったときや年取って細くなったときなどのために、永続的アフターケアサービスがあります。 指輪の号数をある程度調整できるようになっています。 (最初の大きさより大きくすることも小さくすることもできます)須賀の指は男性の中でも特に太いというわけではないので、十分調整の範囲内ですね。 実際に、配偶者に先立たれ、その指輪を自分の薬指の指輪と重ねてつけたいと思い(永遠に心は一緒だよ、という意味合いでしょうか)、サイズ調整して自分の手にはめるロマンチストな方もいますよね。 わりとよくある話なのでわたしは特に気にならず、普通かと思っています。 誰も興味ない文章かもしれませんが、須賀のイケメンパパ度について熱く語るため、さらに追記したいと思います。 これまでの話からずいぶん脱線します。 さらに長々とした文なので、興味ある人だけ読んでください。 今は喘息といっても、基本的に正しく治療を受け続けていれば、酷い発作が起きないようにコントロールすることができます。 しかし、正しく医療を受け、発作誘発因子を生活から可能な限り排除し、(因子とはハウスダストやタバコ、ペットの毛、ストレスや風邪を引くことなど)日頃からコントロールするように最大限努めていても、子どもはどうしても風邪を引きやすかったり、気圧の変化を受けやすかったり、子どもの気管は大人に比べて元々脆弱であったりと、うまく喘息をコントロールできないことも度々あります。 喘息の子は、普段から毎日使うコントローラー(慢性的気道炎症を抑える吸入器)と、作中に使用した発作時に気管支を即効的に広げる吸入器の2つを持っているパターンが多いです。 しかし喘息の子を持つ世の中のお父さん(妻健在の場合)の多くは、その使い方や使い分け、効果、使い時を正しく理解している人はかなり少ないのでは?そもそも喘息でないにしても、自分の子供になにかしらの疾患があったとして、それを十分理解しているお父さんってかなーーり!希少かと。 お母さんがいるならすべてお母さん頼り。 お母さんがいなければ1人でなにもできずにオロオロ。 (世のお父さんを責めているわけではありません。 お勤めご苦労様です)しかしそんな中、須賀は1人でも慌てずスマートに適切な対応を取ることができている。 妻消失後は娘とは暮らしていないため、妻健在のころから須賀は「娘のすべてを理解しようと努め、夫婦共同して子育てできる」素敵すぎる夫だったことが伝わります。 昔からの長年の行動が身についているのですね。 あの吸入器一本でだいぶ語れます。 もう須賀がイケメン過ぎます。 子と引き離された時はよっぽど堪えたことでしょう。 以上、気にするところが超〜細かすぎてもはや誰もついてこれないのでは?な考察でした。 笑 【追記】 帆高が地元の島で、自転車に乗って必死に「晴れ間」を追いかけていたあの描写。 その晴れ間を追いかけた先が東京であったこと。 陽奈が帆高と出会う前から晴れ女を始めていたこと。 そのことから、陽奈が本来雨の場所を晴れにするということは、雨を消して晴れ間を生み出しているのではなく、「世界のどこかから切り離してもってきている」とも考えられる。 帆高が追いかけた晴れ間は、陽奈が(無意識に)どこかから切り取り東京に運んでいるものではないか。 そのように考えると、持ってきた晴れ間の代わりに、降るはずだった雨がどこかに追いやられている(それがしだいに雨の塊になる)ということの根拠になるのではないだろうか。 そしていまだにすっきりせず、私の中で疑問に残る描写がある。 冒頭で須賀は帆高の島になんの用で訪れていたのか? あの島にも晴れ女に関わる何かがあったのか? 須賀は自分の中の半信半疑に確信を持たせるため一人調査に訪れていたとか? 須賀もあの島出身で、たまたま帰郷していただけ? 男ひとり旅って雰囲気ではなさそうでしたね。 そのことについて、なにか面白い考察があれば、みなさんからぜひ聞かせてほしいです。 ご指摘であった通り、800年前に描いた絵からも、人柱は人知れずいざという時は犠牲になることでこの世界はこれまでも救われてきたのでしょう。 しかし人々はその思考のままでよいのか? 実際に、陽奈も犠牲になれば助かるので、どうしようもない時は生贄になるのは「人柱としての重要な力の一つ」であることはたしかなのでしょう。 しかし今までもこれからも、その選択が正しいのか? なぜ世界のバランスが崩れたか?直接手を加えたのは陽奈だが、晴れを望んだ人々は明らかにそれに加担している。 お寺の人や人々の話は、あくまで物語全容のヒントであり、その話だけを切り取ってただ素直に受け止めるのは危険です。 一つ一つのヒントを繋げ考えなければ。 そうしなければ物語に出てくる東京の人々「なにも知らない人々」と一緒になってしまうのだと私は感じました。 これも前述した話となりますが、須賀の妻の母が物語冒頭で語った「今のこどもたちはかわいそう。 昔はどんな季節も素敵に感じた」といったような言葉。 これはまさしく雨や雪を疎ましく感じる(世界のバランスなど考えない)現在の人々の愚かさをまさしく表す言葉と捉えました。 以上のことを自分なりに繋げると、自然とこの解釈にいたりました。 そうすることで、あの結末は観ているこちらとしても受け入れざるおえない。 やはり私の考えはこれ以上でもこれ以下でもないです。 喘息については、世界からみたらたしかに小さな話となります。 人々の役に立つわけでも、世界を救うためでもない。 身勝手のようにも映るでしょう。 しかし1人の親からすれば我が子の命にも関わる重要な話であり、身を削って力を使うには十分すぎる話かと個人的に考えました。 人々の役に立つことで存在意義を感じる陽奈と、人々の役には立たないが我が子のために力になりたい母。 一見反対のように感じるが、根っこは同じ。 誰かの世界を救いたかった。 そんな人たちが、この数年で東京に2人いたのかと。 昔は各地域や村ごとに人柱がいた(つまり同時期に別の地域に人柱が存在していた時代もあった)との話が作中語られたことから、むしろ現在では人柱が現れる頻度は極度に少ないくらいなのではないかと感じます。 そのことを踏まえると、数年前に東京で消えた人柱がいて、現在は違う人柱がいることはさほどきになる点ではないかと思いました。 summerさん コメありがとうございます 私も1回目観た直後は、いつか来る災害のために人柱が存在し、その時世界を救うためだけに存在するのかと思いました。 しかしその場合、ただ異常気象が徐々にひどくなっていくさまを単純に描けば良いだけかと思います。 どこかで水の塊ができて、それが落ちてくる描写。 そしてこの謎の現象は、どこかを晴れにしている陽奈や帆高とは関係のない場所で必ず起きており、晴れ女としての活動を進めて行くうちに頻繁にみられるようになりました。 この描写をわざわざ挟むこと。 これは上記で前述したとおり、晴れにしたことでこの世に降らなかった雨たちの塊が、行き場を失って一箇所に身を寄せ合い、耐えきれず落ちてきたということを印象づけるためだと私は感じました。 つまり、この世には雨も必要不可欠である(陽奈の行動は天からしたら間違い。 本来天が期待した行動と陽奈の行動は異なった)という、天からの悲鳴のように捉えました。 世界のバランスが崩れかけていると警告しているのだと。 そのため災害は、ただ自然のいたずらに起こるべきして起きた結果ではない。 私たち(人々)は決してただの被害者ではなく、自分たちで無意識のうちに少しずつバランスを崩し、選んだ結果なのだと。 帆高が東京に来る前から、晴れ女の目撃情報はあり、陽奈はすでに少しずつ力を使っていたと予想されます。 帆高が東京に来る頃にはすでに雨ばかり降っていた。 これは以前のコメントでも書いたとおり、もともと夏場で雨が降りやすい天気だったとも考えられるが、陽奈が少しずつ世界のバランスを(帆高と出会うことでよりヒートアップして)自らの手で変えてきたことを、世界のバランスが崩れ始めていることを、降り続く雨によって表しているのかと。 たしかに人柱一人で世界は救われる。 しかし本当にそんな単純な話でよいのか。 すべての責任をひとりの女の子が背負ってくれている。 しかしことあるごとに無意識に晴ればかりを望む私たちにも少しずつ責任はある。 そのことについてもう一度深く考ようという意味も含ませることで、ラストはさらに人々が胸を打たれるように物語が深まったと感じました。 私には初回で背景を深く考察できる頭はなかったんですが、キラキラした物語の鍵があちこちに浮かんでいるような、そんな感覚をくれる視聴体験が好きでした。 皆さんの考察の助けを借りて、一つ一つ鍵の合う扉が見えて来た気がします。 須賀が最初の船上で水塊が降るタイミングを知っていたのも、shotamalさんの説を裏付けるし。 「誰かの命の恩人になるのは初めて」という台詞も、妻に世界ごと救われた過去を持つからと考えれば、切ないです。 タイアップに枚数を取られながら、自由にストーリーを補完できる鍵が散りばめられた作品。 だからこそ、観る人それぞれのルートで扉を開け、物語を解釈する楽しさがあるんですね。 とても神秘的な考察で、改めて観に行こうと思います。 ただ、天気の子は、寺のやりとりで、800年前に描かれた絵が示すように、異常気象を正常に戻すために現れ、人柱となるという設定です。 須賀の妻が天気の子だとして、娘の喘息のために晴れにするというのは、さすがに話が小さすぎるし、身勝手すぎる気もします。 それに、娘の歳から見ても亡くなったのが数年前。 さすがに身近で立て続けに現れすぎてはいないだろうか、という素朴な疑問です。 精霊馬を須賀が置いていた説は、納得できるし、鳥居がこの世とあの世の境で、炎を跨ぐように、そこをくぐるという意味合いだとは思いますが。 2回目を見に行く前に、みなさんの素晴らしい考えを聞けると嬉しいです。 magJOPさん コメありがとうございます! その行動について語るにはこちらの設定がポイントになるかと。 かつて喫煙者であった須賀だが、イチャモン言われず娘に会うために、ずいぶん前から禁煙していたこと。 雨が降ると娘になかなかあわせてもらえないこと。 妻が晴れ女だった説について須賀はこの時半信半疑な状態であったと思う。 しかしどこかで須賀はこの雨が降り止まないことは昨晩のニュースを観て、なんとなく感じていたのではないか。 雨が続くため、つまりもう娘には合わせてもらえないのではないかと。 タバコを吸い、酒を飲み、自暴自棄になっているシーンは須賀自身、これまでの葛藤を自問自答するとともに、「どうせもう雨は続く。 娘には会えないのだから禁煙したって意味ないし」そんなヤサグレも混ざった描写なのではないか。 帆高は自分のように大人で利己的な考えの持ち主ではない。 きっと帆高なら陽奈を人柱にしない選択肢を選ぶと。 あの夜、半信半疑ながらそう思い、すべて諦めたのでしょう。 しかし翌日予想と反し、雨は止んだ。 再び晴れた。 そのことが信じられなかった。 利己的で現実主義な須賀が、呆然と窓に駆け寄り、思わず窓越しではなく自分の目で青空を確かめずにはいられなかった。 キャラに似合わずあのようなドジな行動をとらせることで、上手く須賀の動揺を表していると思いました。 娘にまた会える!体調は大丈夫かな?と、わずかな希望と心配を胸に、その後すぐに娘に電話し、元気な声を聞いて安心するとともに、娘がいった「陽奈ちゃんが晴れにしてくれたんだよ!」っという言葉に対して、なんともいえない口調と表情で「そうかもしれないね」と言った描写は、さらに須賀の確信に追い打ちをかけ、罪悪感を与えたのではないでしょうか。 その後、なんとも人を諭すのが上手そうな刑事さんとの会話の中で、思わず全ての感情が涙として溢れてしまったのでしょうか。 ご意見のあった、須賀の違和感のある行動も、「口では語られなくとも、キャラクターの心理に迫る」上で重要となる、非常に上手な描写かと思いました。 私が率直に感じた感想は上記の通りです。 ご意見であった、妻が見えた気がしたからという考えも私にはない発想だったのでおもしろくて、素敵な考えだと感じます!ありがとうございます! 晴れの日が続き、地が渇き、草木が枯れたら時折雨を降らせて潤いをもたらした。 このバランスの見極めが、本来の人柱に求められた仕事なのかと思いました。 昔は人々が雨や晴れだを望むことは、自然と調和した人々の生活の安定を図るためであることがほとんどであった。 しかし最近は、自然とは関係のない各々のエゴで天気をのぞむ人々ばかりだ。 (結婚式や運動会など、自然とは関係のない自分だけの都合で) 晴れの日は望まれても、雨を望む人は昔に比べ随分少ないのではないか。 (人々の生活を自然とともに支える農家の方くらいではないか。 ) そして物語冒頭に須賀の嫁の母が「今の子達はかわいそう。 昔はいつの季節も素敵だと感じた」といったようなことを語った言葉から、昔は雨は雨、雪は雪でどの季節も人々は愛していたという、現代との対比が伝わる。 (今は夏が好きって人多いですよね。 「海にプールにバーベキュー、夏休みはクーラーのガンガン効いた家で学校に行かず外にも出ずゴロゴロできるぜ、雨降ってるから家でゲームする?、寒いのなんて大嫌い、これじゃ外出れないよ」こんな人多いのではないでしょうか。 私自身も心当たりあり。 ) つまり、あの災害や人柱が消えたことは、本来の教えに反した行動をみた天の怒りを表しているのではないか。 災害が起きるのは人柱の責任でもある。 本来人柱が力を発揮し安定が保たれていれば、災害など起こらないという解釈もできるのだろうか。 しかし上記したように近年では人柱ばかりの責任とは言えないのではないか。 みんなが自分たちのエゴで天気を望むから、晴れは選ばれても、雨は選ばれないから。 みんなで少しずつこの世界のバランスを崩したのではないか。 異常気象による災害は、人柱への罰のみではなく、なにも知らず、のうのうとエゴに溺れる人々への、天からの怒り・罰なのではないか。 よって「災害からみんなを守るために人柱が存在するという考えそのものが間違い」だと感じた。 とりあえず人柱が生贄になって、その場を納めても、この世界はまたきっと人々のエゴに塗れ、また新たな人柱が犠牲になる。 人々が気がつかないところでその繰り返して、特定のものが我慢しなければならない世界が続くとしたら、いっそみんなで天罰を分かち合ったほうが良いのではないか。 彼女一人の責任ではない、なにもわかっていない私たちの責任でもあるのだから。 xian liさん コメントありがとうございます。 その点について私も考えてみたので、私の考えを以下に書かせて頂こうと思います。 長くなるので分割します。 毎日晴れの日が続く。 それはそれで異常気象であり、災害なのだと思います。 水が減り、穀物はそだたず、北極南極の氷はとけ、熱中症・脱水で倒れる人も後を絶たない。 人柱となるということは、天気を必ずしも毎日晴れにするのではなく、雨の日や曇り空、雪の日など四季折々の適度な気候を織り交ぜ、それらを許し、その緩やかな変動を守ることが本来の定めなのではないでしょうか。 作中で雨の描写が多かったのは、私たちの現実世界が七月の夏場でジトジト湿気も多く天気が崩れやすく、雨が降りやすいのと同じ。 自然の摂理であり、この時期には必要な天候であり、本来あるべき姿といえる天候なのです。 (つまり人柱に守ってもらっている状態)実際雨が降っているといっても、決して災害ではなく、頃合いを見ていつかはやむだろうという、穏やかな雨という印象でした。 作中は皆晴れを望んでいたため(陽奈は人々の晴れの切望に応じた。 妻は娘のために晴れにし続けたかった)、無理やり晴れにし続けた。 そもそも晴れにし続けるという行為そのものが人柱として間違いだったのではないか。 天からしたら「そんな自分たちの都合ばかりで天気を決めるな。 アンバランスは危険だ。 そんなつもりで力を与えたわけではない。 純粋な気持ちで天気を願う君なら相応しいと思い力を与えたんだ。 やみくもに力を使うな。 」そんなところかと解釈しました。 大きな水たまり一気に落ちてくる描写は、晴れにしたことでその場所には落ちてこなかったが、本来この世界に必要であった雨の量ではないのかと。 晴れにした場所から弾かれた雨が一箇所に固まり、耐えきれなくなって落ちてきたのかと思います。 じゃあ、そもそも人柱で必要なの?と思う人もいるかと思いますが、この世界の微妙なバランスを保っていくためには、時折バランスを調整してあげる役割のものは必要なのだと感じました。 作中にもあったように、言い伝えでは、昔は各地域や村ごとに人柱がいたとのこと。 昔はもっと細かい地域ごとに人柱がいて、雨が続きどうしようもないだろうと感じたタイミングでその地域の人柱が、束の間の晴れ間を作った。 ユージーンさん コメント返信、ご意見ありがとう ございます! 上記の中にあるコメント内にも書いた通り、私自身2回目の作品試聴を行い、少し考察が変わった部分がありました。 須田は妻が晴れ女であったことや、それが原因で消えたことなどはラストに近づくまでは半信半疑でありあくまで須田も調査中。 半信半疑ながらも確信に迫ろうとしていたのではないか。 もし上記コメント参照まだのようでしたら参照していただければ幸いです。 よくわからないお寺のおじさんやその他の人々から得た情報でもイマイチうさんくささが抜けず半信半疑でいたが、廃墟での帆高のただならぬ雰囲気や警察から帆高が消えた陽奈を探してるとしらされたこと(その直前に気象が戻ったため、まさかとは思っていた)から、須田自身本能で感じるものがあったのかと。 須田の涙や、廃墟シーンあたりからの表情から、ただ「帆高となんとなく境遇が似ている」だけとは言えないなにかがあるのではと感じました。 須田のキャラクター的にあの涙は少しばかり境遇が似ている程度で出る涙ではないのかと。 妻が本当に晴れ女だったとして。 妻は須田に内緒にしていたのか。 妻は伝えていたが須田が信じ切れずにいたのか。 須田の目の前で妻は消えたわけではなく、気がついたら消えていたのか。 (指輪だけ残っていた。 ハタから見たら失踪だが、周囲にはこどももいるため事故にあったと伝えているのか)。 よって晴れ女と妻がいなくなった原因をはっきりさせるためオカルトに走ったのか。 大人としての体裁上、のめり込んでるようには見せず、半信半疑な態度はとり続けたのか。 などなど想像しました。 色眼鏡なしで初回試聴したさいにこの背景が自然と浮かんでくる描写が個人的にあったので、私はこの背景ありきで面白い作品だと勝手に思っていますが、そう思わない人は思わない人で十人十色違った視点で楽しめる作品だと思います。 答えはわかりませんが、私の中の天気の子というストーリーは以上になります! 指輪に関しては結構指輪は大抵どこのブランドも、号数を後から調整することは可能なので(太ったり年取って痩せたときなどのためにアフターケアあります)私は全く引っかからなかったです。 須賀くらいの太さまでなら女性物でも大体調査可能かと! shotamalさんへ お返事ありがとうございます。 あなたのレビューで、自分も須賀について深く考えるようになりました。 自分としては、やはり「須賀の妻が晴れ女」という説には引っかかるものがあります。 もしそうなら、あまりに須賀という存在を希薄に描きすぎている気がするのです。 まだ一度しか観ていないので記憶が曖昧なのですが、須賀が従姉妹の夏美と神社(?)で神主のおじいさんから天井絵の話を聞きに行く場面がありましたが、仮に妻が晴れ女として人柱になったと知っていたのなら、あのシーンは必要なかったのではないでしょうか。 また、おじいさんの話にも、「晴れ女」というオカルトにも、半信半疑な態度だったように思います。 そもそも、須賀の「オカルト」に対する姿勢自体も、金になるから、程度の印象でした。 雨の日には喘息がひどくなる娘を想い、物は試しと、「100%の晴れ女」という噂を帆高に調べさせたのだと思います。 そして、陽菜が人柱となり、帆高がそれを救おうとしたのを、最初は止めようとしたのも、帆高の今後の人生を思ってのことだとは思いますが、どこかに、このまま晴れていてくれれば娘の喘息も良くなる、という考えがあってのことではないかと。 須賀がしていた指輪については、おそらく自身と妻のものだという考えは一緒ですが、自分的には、同じ指に嵌め(てましたよね?)られるくらい奥さん大柄だったんですね、という馬鹿げたことを思っただけでした(照) 長々とあなたの考察を否定するようなことを書きましたが、決して批判したいだけで言っているのではありませんので、ご容赦を。 もしかしたら、自分が、陽菜をもっと特別な存在と思いたいがための見解なのかも知れません。 琥珀さん コメントありがとうございます! 「人柱という希少性」についてなのですが、陽奈がもともと晴れ女ではなかったように、選ばれしものだけ生まれ持った才能ではなく、後天的な力だから数人同じような人がいても不思議ではないかと思っております。 陽奈は純粋な気持ちで強く強く願いながら鳥居をくぐったことを機に天気を操れるようになった。 帆高も純粋な気持ちで強く強く願いながら鳥居をくぐり、天と繋がった。 想像ではありますが、須賀の妻も強く強く願いながら鳥居をくぐったことで力を持ったのではないかと。 (すべて私の勝手な想像ですが)娘の喘息発作を誘発する雨をどうしても避けたかった。 コントロールの悪い喘息発作って、ひどいと十分生死に関わりますからね。 強く強く願ったのだと思います。 代々木のあのビルのあの屋上の鳥居で、天気について純粋な気持ちで強く強く願う人はそうそういないと思うので、希少性はある程度は保たれているのだと思います。 そんな珍しい体験をした数少ない人々の巡り合わせが描かれていると感じております。 人柱という存在の希少性を考えると違和感は拭えませんが、想像力を大いに刺激されました。 ありがとうございます。 須賀や失われた『東京』が象徴するものは、今の大人たちが作った社会システムとその既得権なのだと思います。 若者の多くは世の中の大人の事情に振り回されて、就職氷河期とか将来の年金などの言葉で不安を煽られた挙句、大人たちの目先の生活不安を先送りさせるために(税金を納めるために)既存の社会システムに組み込まれることを要請され、従わない者は社会から弾かれ疎外される。 既存の社会システム、言い換えれば、大人たちが保有している経済的価値(それこそが『東京』)なんか無くなったって、大丈夫だから。 また、ゼロから始めればいいんだから。 新しい社会(次の東京)を君たちが作ればいい。 大人になれよ、というのは、もう諦めて社会システムに従えよ、ということだったのだと思います。 拳銃は、少年と須賀がそのくびきを振り払うキッカケの象徴だったような気がしています。 みなさんコメントありがとうございます! 観る回数を重ねるごとに自分の中の解釈や発見が増えていく作品ですね。 あえて登場人物について深く解説がなかったのは、登場人物の表情や細かい描写で映画を楽しめるようにするための監督の意図が感じられます。 自分の解釈が当たっていても外れていても、想像する余地があることって楽しいですよね。 帆高の家出理由もあえて帆高の口から語らせるのではなく、本当に小さな島で狭いコミュニティで暮らしてきたというラストの卒業式の描写や、警察が帆高の捜索中に陽奈に見せた写真(写真の隣にはいかにも厳格そうな父、固い帆高の表情)。 これらの描写から帆高が窮屈な生活を送ってきたのではないかということがひしひし伝わってきます。 将来の夢を親に押し付けられたりでもしたのでしょうか。 狭いコミュニティで気の合う仲間ができなかったのでしょうか。 (妄想全開です) あの年頃のこどもが「どうしても家に帰りたくないんだ!」と決意するには十分な描写でした。 私自身も心当たりありますしね笑 みなさんコメありがとうございます! 映画に深みを持たせて、ディスカッションできる作品というのは楽しいですね。 2回目観た感想としては、やはりこの説はありかなと思いました。 ただ新たに以下のことを感じました。 ラストに近づくまで須賀は、妻が晴れ女だと確信していたというよりは、「晴れ女であること、それが原因で消えたことについて半信半疑な状態」であったのではないか。 確信に迫るため、帆高に晴れ女について入れ知恵させ、追わせていたのではないか。 妻が須賀に晴れ女になったことを話していたかどうかまではわかりませんが、たしかに普通の大人は「私晴れ女よ」と言われて晴れたとしても、そうそう信じないですよね。 半信半疑であるからこそ晴れ女に心囚われ続けているのか。 帆高のように純粋に信じきれなかったから助けようと暴走することができなかったのではないか。 ただあの廃墟ビルが妻を変えたきっかけであると、なんとなく感じていた。 ビルにきた帆高の異様な様子を見て、須賀自身このタイミングで確信に迫ったのではないか。 ラストにかけての須賀の表情がこの過程を物語っているのではないか。 ・過去にも異常気象が続いたという描写がないことについて。 これについては、須賀の妻は異常気象が起きてすぐ人柱になることを選んだため、異常気象が続いた描写がなかったのではないかと。 異常気象って現実世界でも何年かに一度くらいは必ずありますよね。 人々が知らない所で犠牲になって守ってくれた人がいたよということなのかと。 須賀が異常気象のニュースをみながら、ずっと辞めていたタバコを沢山吸って酒を浴びて寝ていた描写がありました。 その描写で、「妻が消えた前後の様子と似ている。 すべて本当のことだとしたら、あの子ももうじき消えるのか。 人柱一人で救える世界なら一人犠牲になるくらい仕方ないんだ。 妻だって犠牲になって世界を救ったんだ。 だから仕方ないんだ。 …いや本当にそれでいいのか?」と悶々としていることを表しているのではないかと。 須賀が指輪を触るタイミングは、罪悪感を感じている時ではないか。 陽奈に依頼して晴れしてもらった時と、陽奈が消えた後(晴れたことにより須賀は陽奈が消えたことを悟った)に刑事が来た時。 まだまだ行間の読み応えのある作品だと感じました。 この想像がすべて合っていなくても、こうやってイメージに浮かんでくることが楽しいです。 自分もこのレビューをみて見直してきました! 最初はこの設定に気付くことが出来ず、自分の中の評価は高くなかったのですが、この設定を確認しにもう一度見たところ、大変感動しました。 大事なシーンでは須賀が妻の指輪を触っているところ、代々木の廃ビルに先回りしていたこと、無意識のうちに涙が溢れているところ、ムーの記事を書いているところ、この世界はもともと狂っているんだという言葉など、この映画で少し疑問に思っていたところが、全て繋がりました。 さらに、大人になって妻の死を受け入れた須賀と、自分の愛する人を優先し大切な人のいる世界を選んだ帆高の対比も大変納得でき、ラストのシーンの重みも増したように思えました。 「ドクター・ドリトル」 C 2019 Universal Pictures. All Rights Reserved. 「ホーンテッド 世界一怖いお化け屋敷」 C 2018 Danger House Holding Co. , LLC. All rights reserved. 「ANNA アナ」 C 2019 SUMMIT ENTERTAINMENT,LLC. ALL RIGHTS RESERVED. 「ハリエット」 C 2019 Focus Features LLC.

次の

『天気の子』ネタバレ結末!須賀が帆高に味方した理由は?妻明日香の事故死が関係か

天気 の 子 須賀

『天気の子』の須賀圭介のプロフィール 『天気の子』はひたすらに大人が魅力的。 いつまでも夢見て現実逃避する若者たちと対極で、現実を突き付けてくるリアルな大人達。 どちらかと言うともう自分は須賀さんのような考えだからこそ、若者達が必死に未来へ向かって走る姿が刺さるに刺さる。 『天気の子』に登場する須賀の名前は、 須賀圭介(すが けいすけ)と言います。 須賀は、帆高が家出したときフェリーの甲板で、大雨の中、海へ滑り落ちそうになった帆高を助けた命の恩人なのです。 須賀圭介には 明日香さんという嫁がいましたが事故で死亡しています。 1人娘の 萌花(もか)ちゃんは、母方の祖母・間宮さんにひきとられて間宮さんの家で過ごしています。 スポンサーリンク 『天気の子』ネタバレ結末!須賀が帆高の味方になった理由! は、君の名は。 新海監督の最新作『天気の子』では 、クライマックスで帆高が警察署から逃亡し、陽菜を探しに行くというシーンがあります。 陽菜がよく訪れていた赤い鳥居のある雑居ビルに、帆高は走って向かいます。 雑居ビルに到着すると、そこには須賀が待っていました。 「今なら警察に行って事情を説明すれば大丈夫だ」と、須賀は帆高をなだめるのですが、帆高は陽菜を探しに行くといっていうことをききません。 そうしているうちに警察が到着し、帆高は取り押さえられます。 その次の 突然、須賀が帆高の味方になり、陽菜を探しに行く帆高のことを助けてくれるのです。 帆高を引き止めていた須賀が、なぜ須賀の気持ちは変わったのか気になりますね。 そして 須賀は事故死した嫁の明日香さんにもう一度会いたいと強く想っています。 つまり陽菜が死んでしまったら、 帆高も須賀と同じ愛する人を失ってしまうという状況になってしまうというわけです。 そのため大切な人を救えるチャンスがあるなら、できることをやってほしい!そんな気持ちで須賀は帆高が警察から逃れる手助けをしたのではないかと思うのです。 主題歌 「愛にでできることはまだあるかい 僕にできることはまだあるかい」の言葉は、帆高だけでなく須賀に向けた言葉でもあったのかもしれませんね。

次の

『天気の子』の深すぎる「10」の盲点

天気 の 子 須賀

【天気の子】須賀圭介の子(萌花)とは 「天気の子」の主要な登場人物の一人に、編集プロダクション・有限会社K&AプランニングのCEO兼ライターを務める 須賀圭介がいます。 島から家出する帆高とフェリーの中で出会い、そこで帆高の命を救い、東京では帆高の生活の場と仕事を提供します。 少しだらしない駄目な大人の印象を受ける人物ですが、実は結婚歴があり、娘が一人います。 その 須賀圭介の娘が 萌花です。 須賀圭介は、帆高と同じく家出をして東京で妻となる明日花に出会います。 二人は大恋愛の末、結婚し 萌花をもうけます。 しかし、明日花は事故で亡くなってしまいます。 その後、まだ幼い 萌花は明日花の母親である間宮夫人に引き取られ、須賀圭介とは別々の暮らしを送ることになります。 須賀圭介と萌花が別々に暮らしている理由が明言されていませんが、恐らく零細企業を経営している須賀圭介に養育能力がないと判断されていること、また喫煙者であったことが理由だと思われます。 父親と離れて暮らす萌花は明るく可愛らしい女の子ですが、喘息を患っており天気の悪い日は外出をすることができません。 萌花のあどけない可愛らしさと、須賀圭介が一緒に暮らすために懸命に奔走する姿が非常に印象的です。 関連: 関連: 新海誠監督の娘・新津ちせがモデルの可能性 可愛らしい幼い女の子の 萌花ですが、 新海誠監督の娘がモデルではないかと言われています。 新海誠監督は女優の三坂知絵子さんと結婚をしており、娘もいます。 娘は 新津ちせさんという名前で子役としても活躍している9歳の可愛らしい子です。 この 新津ちせさんが 須賀萌花のモデルではないかと言われているのです。 実際のところについて、新海監督をはじめ制作関係者は特に言及をしておらず、現状は噂の域を出ません。 新津ちせがモデルと噂されているのは、 「天気の子」の構想が始まったとされる「君の名は。 」公開前後の年齢が6歳で須賀萌花と同年代であったこと、また須賀萌花と同性の女子であることが挙げられます。 とはいえ、やはり明言はされていないので、モデルとした可能性があるという程度でしょう。 新海監督と妻である三坂知絵子さんとの間には ほかに子どもはいないようですので、一人娘として可愛がられています。 新津ちせさんは母のすすめで、児童劇団である劇団ひまわりに所属しています。 デビューは4歳だった2014年にミュージカル「ミス・サイゴン」のタム役で果たしています。 演技力が高いという評価を受け、その後CMなど活躍の場を広げていきます。 2017年には、映画『3月のライオン』に川本三姉妹の末っ子・モモ役で出演しています。 この時、クランクアップまで新海誠の娘であることが隠され、主演の神木隆之介さんや原作者はクランクアップ後にその事実を知り、大変驚いたようです。 今年の秋に公開を控えている 『駅までの道をおしえて』では、 映画初主演を務めることになっています。 この映画は、3か月にわたるオーディションを行ったことでも知られており、その中から主演の座を勝ち取ったことからも 実力の高さが窺えます。 ダンスやバレエ、ピアノなど興味の範囲は広く多才ぶりを発揮していますが、日刊スポーツの記事に好きな食べ物はいちごと枝豆とプリンと紹介されており、年齢相当の可愛らしい一面も垣間見えます。 また、NHKの2020応援プロジェクトの応援ソングパプリカを歌う小学生音楽ユニットの Foorinのメンバーでもあります。 新海誠監督の娘の新津ちせさんはマルチタレントな子です。

次の