ワールド カップ ラグビー 日程。 ラグビーワールドカップ2019日本大会 大会収支は676億円

ラグビーW杯2019日本大会「全試合日程と会場、対戦組み合わせ、結果」

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ラグビー日本代表監督時代の平尾誠二(1997年5月撮影)と、平尾との思い出を語る元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子(2019年6月撮影) 小粋な1軒目と待ち合わせ、そして… 1998年秋に25歳でプロテニス選手を引退してから、間もない頃だ。 10代から年間200日以上も海外を転戦する多忙な日々を送ってきたうえ、実家は門限10時と厳しく、酒をほとんど飲めない体質でもある。 夜の街を楽しむような経験がほとんどないまま、テニス一直線で成長してきた。 10歳上の平尾の導きで「大人への階段を上る」くらいの気分で、沢松は北野坂を歩いた。 平尾のほかにテニスコーチら2~3人が一緒という顔ぶれで、沢松が紅一点だった。 1軒目は、平尾が行きつけの店に予約を入れていた。 「フォークとナイフでカチャカチャ、みたいなお店だろうと想像していました。 着いてみたら、アットホームでこぢんまりとした定食屋さんのようなところ。 平尾さんに出すメニューは決まっている感じで、注文しなくてもおいしいものが次々と出てくるんです。 お店の人たちも、ワイワイと私たちのテーブルへ話しに来ちゃう。 まるで平尾さんの家にお邪魔しているみたいに、くつろいだ雰囲気でした」 なるほど大人の男性って、こういうお店に通うものなのか、などと感心しつつ、心楽しい食事を終えた。 すると、ほどよく酒が回って上機嫌の平尾から「ナオちゃん、俺の知ってるエエ店が、この近くにあんねん」と、2軒目へのお誘い。 門限には、まだ時間があった。 全員、喜んでついて行くことに。 粋人らしさを発揮した待ち合わせと1軒目の店選びで、平尾のセンスを誰もが信じきっていたが、自由奔放な遊び心の持ち主でもあることは知らなかっただろう。 2軒目の店は、すぐ近くのビルの地下にあった。 階段を下りて扉を開けると、異質な空間が広がっていた。 「私の人生、最初で最後の『刺激的すぎるバー』だったんです。 その後も含めて私、あの時ほどドキドキした経験ってないと思うなぁ」 あやしい空間でまじめなトーク「私、遊ばれた?」 動画を視聴するにはiframeタグに対応したブラウザをご利用ください 店員は男女とも、体にぴったりした露出度の高いレザーの衣装を身につけ、仮面舞踏会の参加者がつけるようなマスクをしている。 片手に、ある種の「道具」を持って、もう片方の手で飲み物やつまみを運んで客に出す。 照明も、あやしい色を帯びている。 そんな趣の店だ。 少なくとも沢松が記憶している限りでは、客と店員が一般常識から外れた行為をしたり、されたりするような場面はなかった。 きわどいショーやステージ・パフォーマンスの類いも見なかった。 「それでも、夜の神戸の初心者だった私にとっては、あまりに敷居が高かった。 目を白黒させて、もうパニック。 えらいところに来ちゃったな、って思いましたよ」 「ただし、嫌な感じも全然しなかったんです。 だって平尾さん、その店でもラグビーやテニスについて、ずーっとまじめな話をするんですよ。 そういう格好をしているお店の人たちも交えて、『ラグビー日本代表は、こうしなきゃいけない』というようなことを、熱く語るんです。 私はラグビーに詳しくないから、聞かされてもよく分かりませんでしたけど、話の内容と場所とのギャップは、面白くて仕方なかったですね」 兵庫県西宮市の実家に帰ると、親から「ラグビーの平尾さんと、どこへ行ってきたの?」と尋ねられ、門限10時のお嬢様は答えに窮した。 「えーっと、ご飯食べさせてもらってね……。 なんかその後、ちょっとお酒を飲んだ」などとごまかし、どうにかしのいだ。 実は、この「刺激的過ぎるバー」に、平尾はしばしば人を同伴している。 共通の友人と一緒に酒を酌み交わし、初対面で意気投合した有名な男性バレエダンサーも、連れて行かれたことが分かっている。 気の合う年下に出会うと、この店に引っ張り込んでは反応を観察して楽しむ。 どうやらそれは、平尾一流のお遊びだったらしい。 「あ、やっぱりそういうことなのか! 私、遊ばれたのか、平尾さんに。 でも、いいの。 この話、誰にも言ってはいけないことなんだと思って、20年以上も抱え込んできたけれども、こうして解禁できたから、思い残すことはない! さっきから『ナオちゃん、そんなこと人に言うなよぉ』って言われている気がして、上の方から平尾さんの圧を若干、感じるんですけどね」 沢松は天井を見上げて「アハハ」と笑った。 スクール・ウォーズと貴公子ラガー 1987年5月、日本代表合宿で軽快な動きをみせる平尾(中央) 1973年3月生まれの沢松は、小学校高学年で「スクール・ウォーズ」の洗礼を受けた世代に属する。 80年代半ばに放送され、大ヒットしたテレビドラマ。 荒れた学校に赴任してきた熱血教師が不良少年を更生させ、ラグビー部を高校日本一に導くまでを描いたストーリーは、平尾が主将を務めた当時の京都・伏見工高が全国高校大会で初優勝を飾るまでの実話が、下敷きになっている。 ドラマの中で、「平山誠」という主将が活躍している頃、平尾本人は同志社大の主力選手で、日本代表の次代を担うスターとしてファンの期待を一身に背負っていた。 「ラグビーといえば『スクール・ウォーズ』。 汗かいて、泥臭くて、男の中の男っていうイメージ。 大八木(淳史)さんみたいな大きい人が、ボールを持って走っている姿を思い浮かべるスポーツでした。 それが、本物の平尾さんを目にした瞬間、『格好いい』に変わりました。 平尾さんはトライを決めても、ウェアが乱れないんです。 グチャグチャ、ドロドロになるようなことが全然ない。 スポーツニュースで平尾さんが何秒か映るだけで、『ちょっと何、この格好いい人。 なんで走っているの』って。 その何秒かでラグビーのイメージが変わるくらいのインパクトがありました。 汗の臭いがするにしても、平尾さんなら、さわやかな香りだろうと思っていました」 実際の平尾は、華麗で洗練されたランニングとパスだけを得意とする選手ではなかった。 的確なタックルを決め、体を張るプレーをいとわない面もあった。 そのあたりは端正なマスクの陰に隠れ、ラグビーファン以外の目にはつきにくかった。 日本代表監督時代の1997年に出演した長寿テレビ番組「徹子の部屋」では「傷、多いんですよ。 顔だけで65針くらい縫ってます」と打ち明けている。 「アナタ、お顔に傷のない方ねえ」と持ちかけた黒柳徹子の感覚は、平尾だけは決してウェアが乱れないと言った沢松と、近いものがあるかもしれない。 頭を打ったくらいなら、やかんの水をかけてもらって起きあがるし、血が出たってテープをひと巻きして戦線に戻る。 そんな荒っぽいイメージだったラグビー界に、貴公子然とした平尾は1980年代、新風を吹き込んだ。 その辺りの空気感を、沢松は少女時代、ビビッドに感じ取っていた。 全日本選手権を制した高校1年当時の沢松(1988年12月撮影) シンポで実質初対面、イチローやヤワラちゃん交え 兵庫・夙川学院高の1年生時代にテニスの全日本選手権を制した後、報道機関が企画した対談などで、初めて本物の平尾と顔を合わせた。 ただ、その頃に話した内容をはっきり覚えてはいない。 神戸製鋼を日本一に導いたラグビー界の若きスターを前に、きっと緊張していたのだろう。 実質的な初対面は1995年11月、阪神大震災の被災児童を励ます目的で一流スポーツ選手が神戸市内のホールに集まったシンポジウムだ。 平尾と沢松のほか、当時はオリックスで活躍していたイチロー、柔道の田村亮子(現・谷亮子)と、豪華な顔ぶれだった。 「クールで硬派なラグビー選手という平尾さんのイメージが、あの日、変わりました。 お会いして話すと、気さくで、とっつきにくさなんてどこにもない。 『うわ、メチャクチャしゃべりやすい人じゃない!』と、感動しました。 あの当時はイチローさん(沢松より1学年下の世代)もまだ若くて、シンポジウムみたいな機会には慣れていなかったようで、割と緊張されていた感じ。 そんな雰囲気の中、楽屋であいさつを交わした時から、年長者だった平尾さんがみんなを和ませてくださったんです」 この日、競技の枠を超えた平尾と沢松の絆が生まれた。 沢松の引退後は、平尾の大病がわかる8か月ほど前の2015年1月まで、イベントでの共演や私的な会食などを含め、2人は毎年のように会う機会を作り、親しく語らう間柄になった。 もっと考えてラグビーをしよう 「考えるラガーマン」は人脈が広かった。 2010年3月、プロ野球の古田敦也(奥)や陸上競技の朝原宣治(手前)と共に文科省の会議に出席した平尾 神戸製鋼の親しいチームメートたちが相手だと、平尾はグラウンド外でほとんどラグビーを語らず、笑い話に興じていたと伝えられる。 それなのに、ラグビーの知識がない沢松には、会うたびに独特の切り口で、ラグビーとスポーツを熱く論じた。 「基本的に『スポーツは考えるものだ』というのが、平尾さんの考え方でした。 ラグビーの場合、自分が試合中に置かれている状況をちゃんと第三者的に分析して、どこにパスするべきか、どう動くべきかを考えられる人が、最終的には勝つんだと。 『日本のラグビーは、もっと考えなくちゃいけない。 もっともっと頭を使わなきゃいけない』。 その意見には私、ものすごく共感しました。 スポーツ選手って、脳みそまで筋肉というような昔のイメージとは違って、トップレベルになればなるほど、頭が良くないとできないものだと思うんです。 その考えに、平尾さんとお会いしてから、自信を持てるようになりました」 テニスについても、平尾はきわめて雄弁で、しばしば鋭い分析を披露した。 マシンガン・トークで鳴らす沢松が、主に聞き役に回った。 「そういう目線なのって首をかしげるような話もあれば、すごく的を射ていることもあるんです。 『この選手、この前の試合では、コートのあっち側にボール集めて、負けたやろ。 そしたら、次やる時までにはデータを取って、どの方向にどんな配分でボールを散らしたらいいのか、絶対に考えるべきやと俺は思う。 そこに気がつかない選手はアカンねん』。 そんな話をされたことがありました。 面白いなぁと思いましたね」 鋭い観察「ナオちゃんは頭使ってる」 1992年6月、ウィンブルドン選手権でジェニファー・カプリアティと熱戦を演じる沢松奈生子 沢松のプレーも、きっちりリサーチされていた。 現役時代、ひそかに心がけていたことを鮮やかに見抜かれ、舌を巻いたことがある。 テニスの試合では、開始前に5分間のウォーミングアップがあり、両選手が軽く打ち合う。 この時間を、沢松は大切にした。 自分の体をほぐし、その日のコート状態やボールの弾みを確かめるだけではない。 感覚を研ぎ澄ませ、力を抜いたラリーの中にもかすかに表れる対戦相手の調子を把握することに努めた。 このささやかな工夫で、体格がよくてパワフルな海外トップ選手たちとの勝負に、沢松はしばしば活路を見いだしてきた。 「試合前に相手のデータは、もちろん全て頭に入れています。 どんなショットに特徴があるとか、サーブはどのコースに打つ割合が高いとか。 けれども、相手選手も生き物だから、その日の調子までは、コートで顔を合わせてみないと分からない。 『きょうはこのコースが調子いいな、ここは悪いな』という感触を、私はウォーミングアップでつかんでいました。 そこに気づけるテニス関係者って、そうそういないものなんですよね。 ところが、違う競技の平尾さんが、しっかり気づいていました。 『ナオちゃんは、相手の特徴を試合の序盤につかんでいる。 ちゃんと考えているやろ、あの5分で』って言われたんです」 「テニスのことで、他の人から『ナオちゃんはちゃんと頭使っている』なんて上から目線で言われたら、私は怒ると思います。 夫に言われても、モノを投げつけちゃうかも。 でも平尾さんだと、むしろ『えー、ホントですかぁ』って純粋にうれしくなってしまう……」 ルールをよく知らないラグビーの話を延々とされても、誰よりも考え抜いてきたテニスを上から目線で語られても、沢松はいつも平尾の話を喜んで聴いた。 「ついていけない世界のことばかり、延々と語ってしまう男性っていますよね。 平尾さんだけは、それが許されるんです。 だって、平尾さんだから。 女性から見てもずるいなって思うくらい、立っているだけでも格好いいんですもん。 ただ格好いいだけだとつまらないけど、クールさと熱さを併せ持っていて、人間的に厚みがある。 だから、話のテーマよりも、平尾さんに興味があって話を聴き続けてしまうんです」 そもそも、初めての会食で「刺激的すぎるバー」に案内するようないたずらをやらかす男性は大抵、女性から愛想を尽かされるだろうし、トラブルになっても不思議はない。 平尾という男性はやはり、特権的なスターだったということだろう。 共通する「生かされている」意識 国連防災世界会議プレ・シンポジウムのパネル討論で発言する平尾(2004年8月撮影) 阪神大震災を抜きに、兵庫ゆかりのアスリートである平尾と沢松の結びつきは語れない。 発生した1995年1月17日は、平尾にとって、神戸製鋼で日本選手権7連覇を達成した2日後だった。 当時のチームメートによると、平尾は被災した朝、妻子と自宅にいた。 家族の無事と家の状態を確認すると、親戚の無事を確かめに出かけ、がれきを動かして人を救出した。 沢松は震災の日、全豪オープン出場のため、オーストラリアのメルボルンにいた。 生まれ育った西宮市の実家は全壊し、1階にあった自身の寝室もぺしゃんこになったが、家族は奇跡的に全員無事だった。 「全豪オープンがあの時になかったら、私は死んでいました。 本当に拾った命だと思っています」 沢松はこの全豪で快進撃を演じ、被災地を勇気づけるヒロインになった。 実家を案じて電話口で「帰国したい」と訴えた沢松を、往年の名選手でもある叔母の和子(ウィンブルドン選手権女子ダブルス優勝者)が「プロなら試合をしなさい。 嫌なら泳いで帰ってきなさい」と一喝したエピソードは、テニス界の語りぐさだ。 腹を決めてプレーを続けた沢松は、杉山愛、伊達公子、メアリージョー・フェルナンデス(米国)と手ごわいライバルを次々と撃破。 準々決勝でアランチャ・サンチェス(スペイン)に惜敗したが、四大大会で自身の最高成績となるベスト8に食い込んだ。 「神戸の方々の力を感じながらプレーしました。 最悪の体調でしたよ。 寝ていないし、食べていない。 自分の家族や、神戸にいるみなさんが食べるものもないっていう時、自分だけぜいたくな食事なんて当然できませんから。 練習もできていない。 それでも、コートに立ったら無の境地で、ボールしか見えない。 パーンって、いいコースに打たれて、『あぁ、もう絶対にとれない』と思った時に、ふと神戸の人たちの声が聞こえてくるんです。 『取れるよ!』。 体が勝手に押される感じで、ラケットを出したら、それが決まっていました。 ちょっと自分が怖いと思いました。 あの声がなかったら、たぶん私の足は止まっていました」 雑念が消え、極限まで集中が高まり、最高のプレーができる状態を、近年は「ゾーンに入る」と表現する。 沢松にとって、自身がゾーンに入ったと感じた経験は、人生で2回だけ。 1回目が全豪での各試合で、2回目はモニカ・セレシュ(米国)と大熱戦を演じた引退試合だ。 「全豪オープンは、私にとって、ある意味で原点です。 スポーツ選手として、ただ強くなればいい、勝てばいいっていうのではなく、自分たちがなんで今、スポーツをやらせてもらえているのか、できるのかを考えるきっかけになりましたから。 人として、毎日を大事にして、いつ何があっても後悔しないように、自分に何ができるかを考えて生きたいと思うようにもなりました」 一方、沿岸部にある神戸製鋼のラグビー練習場・灘浜グラウンドは、液状化などで使えなくなり、一時はグラウンド脇ががれき置き場になった。 しばらくして、あちこちの高校のグラウンドを借りて練習を再開したチームを、平尾は「震災を言い訳にするな」と鼓舞した。 そのシーズン、神戸製鋼の連覇は途絶えた。 チームが日本一に返り咲いたのは、2000年。 平尾はすでに引退し、ゼネラルマネジャー(GM)を務めていた。 「震災の後、『自分は生かされていると思うようになった』と、平尾さんがシンポジウムで話していたのを覚えています。 被災した日の行動についても、うかがいました。 スポーツのトップ選手って、毎日毎日が精いっぱいだから、自分の人生がどうとか、生きているのはあと何年だからどう生きようとか、特に考える機会がない人もいると思います。 平尾さんは震災の時に『命っていうものは、いつなんどき、何があるかわからない。 そうであれば、生きている間は、生かされている命を一生懸命生きよう』と思ったそうです」 震災を経て、2人は「命」に対してよく似た意識を抱くようになった。 引退試合を戦い終え、相手のセレシュに抱かれて泣く沢松(1998年9月) 被災地にたつ選手目線のW杯会場 間もなく始まるラグビーW杯の試合会場となる神戸市御崎公園球技場は、阪神大震災から復興する神戸を世界にアピールするシンボルとして、2002年のサッカーW杯日韓大会に合わせて建設された。 神戸製鋼と大林組のジョイント・ベンチャーが設計、建設に携わった。 設計段階で、平尾は様々なアイデアを出した。 ひとつは、グラウンドとスタンド最前列の段差をできるだけ低くしようという助言だ。 選手が観客と握手をしたり、サインをしたりする試合後の交流を、容易にすることが目的だった。 サッカーW杯の基準では、厳密なフーリガン対策が求められたために段差が2. 5メートル必要とされていたが、神戸のスタジアムの段差は1. 8メートルにとどめた。 サッカーW杯の間だけ、仮設で0. 7メートルかさ上げして対応した。 サッカーW杯の開幕前、沢松は完成直後のスタジアムを訪れた。 平尾、そしてサッカーの三浦知良(当時はJリーグのヴィッセル神戸所属)との対談企画だった。 めっぽう格好いいスポーツマン2人と一緒にグラウンドに立つという機会を楽しむとともに、被災地・神戸に誕生したフットボールの聖地の姿に深い感銘を受けた。 「アスリートは、観客席から見る景色ではなくて、ピッチから観客席を見ています。 なので、実際にフィールドに立って初めて、そのスタジアムの良しあしを感じるんです。 選手目線で見た時に『すごく開けている』とか『窮屈な感じがする』とかを感じて、そこから競技しやすい、しにくいっていうのを判断します。 神戸はすごく開けていました。 芝も、ウィンブルドンを超えたかもと思うくらい、美しくて。 ここはプレーしやすいだろうなって、思ったことを覚えています」 「平尾さん、思い入れをすごく熱く語っていました。 『俺が建てた』くらいの勢いでした。 世界中のいろんなスタジアムを見に行って参考にしたという話でした。 『ナオちゃん、ウィンブルドンと全米オープンの会場って違うやろ?』って、聞かれましたね。 『国によってお客さんのカラーも違うから、全然違うスタジアムになるんや。 神戸には神戸のスタジアムを造りたかった』って」 平尾も携わった神戸のスタジアムでは、ラグビーW杯で、4試合が行われることになっている。 「2015年1月のイベントでお会いした時も、W杯の話を一生懸命されていました。 『ナオちゃん、見に来てや。 日本でW杯をやるって、ホンマにすごいことやで』。 それが最後になるとは、夢にも思っていなかったので、『ハイ、ハイ』っていう調子で聞いていたのが、悔やまれます」 都内に暮らす今も、兵庫に里帰りするたび、沢松は平尾を思い出す。 「変わってきた町並みを見ると、神戸の人たちが頑張って復興してきたんだと感じ、誇りに思います。 自分たちが、何か小さくても力になれていたとしたら、スポーツ選手として一番良かったことだと思うんです。 平尾さんが神戸製鋼に入って、神戸にいる時に大きな震災が起きた。 そして今回、W杯が神戸に来る。 なんだか、全てがつながっているような気がします」 今年1月、沢松は会合の席で、黄金に輝く本物のワールドカップを目の当たりにした。 その場面を脳裏によみがえらせた時、沢松の目に涙があふれた。 「カップと一緒に写真を撮らせてもらいました。 『あぁ、平尾さんがここにいたら、喜ぶんやろうな』と思いながら。 そうやって、ところどころで思い出しちゃうんです。 あぁ、またお会いしたい……。 平尾さんと知り合っていなかったら、私がW杯に興味を持つことはなかったでしょう。 だから、代わりにはならないけれども、平尾さんの分までW杯をしっかり見届けたいと思います」 平尾との思い出をよみがえらせ、インタビュー中に涙ぐむ沢松 平尾カメレオンと内助の功 ラグビー、テニス、震災……。 様々な話を聴いてきた沢松は、平尾のことを「カメレオンみたい」とも表現する。 「ものすごく真面目だったのか、それとも天才的なアスリートだったのか、すごく努力をしてあそこまで積み上げた人なのか。 すべての可能性を、考え得るんですよ。 それがつかめない。 いろいろ想像できる。 どれだけお会いしても、結局答えが出なかった。 そのまま逝ってしまったんです」 「格好いいだけじゃないってことですよ。 トータルして、彼の魅力なんだと思います。 おそらく出てこないでしょうね、こんな人は。 全アスリートを通して考えても、ほかに出会ったことがない。 イチローさんだって、(松岡)修造さんだって、自分の色がありますけど、どれが平尾さんの色なのか分からないようなカメレオン人間はいない。 一体どれが本当の平尾誠二なのか、最後までつかめませんでした」 そして、平尾がカメレオンでいられたのは、内助の功が一因だと、沢松は考えている。 「亡くなったと聞いて、突然お宅へ伺うのも迷惑になるかもしれないので、お花を送りました。 そうしたら、奥様から直筆のお手紙をいただいたんです。 亡くなって間がなかったので、本当にお忙しかったでしょうし、たくさんの方が弔問に来られた中で、手紙を書く時間を割いてくださったことに感動しました。 『仲良くしてもらって、ありがとうございました。 家で沢松さんの話をしていました』と、書いてくださいました。 平尾さんが選んだ方ってどういう女性なんだろうって、すごく興味があったんです。 奥様には、まだお会いしたことがありません。 選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。 その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。 平尾 誠二(ひらお・せいじ) 1963年1月21日生まれ。 京都市立陶化中でラグビーを始める。 京都市立伏見工高2年で全国大会ベスト8。 3年で全国制覇。 同志社大に進み、中心選手として史上初(当時)の大学選手権3連覇に貢献した。 卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。 新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。 同志社大2年の1982年、当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表キャップを獲得。 通算35キャップ。 W杯には第1回の1987年から3大会連続出場。 91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。 現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。 97年に日本代表監督就任。 99年のW杯では監督として日本代表を率いた。 神戸製鋼ゼネラルマネジャー、日本ラグビー協会理事、日本サッカー協会理事、ラグビーW杯2019組織委員会理事なども歴任した。 2016年10月20日、胆管細胞がんのため、53歳の若さで亡くなった。 沢松 奈生子(さわまつ・なおこ) 1973年3月23日生まれ。 テニス一家に生まれ、5~10歳をドイツで過ごす。 兵庫・夙川学院高1年だった1988年、全日本テニス選手権女子シングルスに初出場し、優勝。 神戸松蔭女子大入学と同時にプロ転向した。 シングルスの世界ランキングで自己最高は14位。 四大大会の最高成績は、全豪ベスト8、ウィンブルドン、全仏4回戦進出、全米3回戦進出。 ツアー通算シングル4勝。 92年バルセロナ、96年アトランタ五輪代表。 98年に引退した。 2000年に平尾が設立してNPO法人の理事長に就いた総合型地域スポーツクラブ「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」(SCIX)には、発起人として協力した。 現在は、テニス解説者、コメンテーターとして活躍している。 叔母の和子は1975年ウィンブルドン選手権女子ダブルスで優勝。 母の順子は、和子との姉妹ペアで70年にベスト8入りした。 父の忠幸もウィンブルドンに出場したテニス選手だった。 《あわせて読みたい》.

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ラグビーワールドカップ2019 日程と観戦ツアー

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大会の成功によって大きく高まった日本の誇り• 43億ポンドの経済効果• 訪日客数242,000人。 平均滞在日数17日。 日本の観光業と経済に寄与。 大会による46,000人の雇用の創出・維持。 全国的な経済効果の中心にあった強い地域的影響• 釜石復興スタジアムなど、ラグビーとコミュニティースポーツの多大なレガシー創出• 大会の成果が日本のラグビー主要国としての地位を強化 Japan 2019は、EYが本日発表した The economic impact of Rugby World Cup 2019 report (ラグビーワールドカップ2019の経済的影響に関する報告書)によると、本大会はおよそ43億ポンドの経済効果を生み、ラグビーワールドカップ史上、経済的に最も成功した大会となった。 ラグビーワールドカップ2019は、日本の「おもてなし」の精神と、よく知られる日本文化を披露しながら、他では得られない経験の機会を訪日客に与え、日本の誇りを大きく高めた史上最高の大会として賞賛されている。 フィールド内外で忘れられない瞬間の数々を生んだこの大会は、ラグビーワールドカップが世界で最も権威のあるエキサイティングなスポーツイベントの一つとしてその存在を確固とした。 日本全国12都市で開催された44日間に亘る世界ラグビーの祭典は、世界中の国々やファンを魅了した。 この大会は、これまで開催された9回のワールドカップの中で最も競争力があり、観客動員数最多、最高視聴者数、ソーシャルエンゲージメントにおいても最高、また商業面で最も成功した大会となり、また2019年における最大のスポーツイベントとなった。 また、ラグビーワールドカップ2019は日本のスポーツの歴史上、経済的に最も成功した大会となり、アジアにおける初のラグビーワールドカップを日本全国で開催するというアプローチがいかに重要であったかを裏づけた。 ラグビーワールドカップ2019が43億ポンドの経済効果を上げ、日本のGDPに23億ポンドの貢献をしたことについてまとめたEY報告書は本日東京で開催した特別ウェビナーイベントにおいて発表された。 この大会では、178カ国から242,000人の訪日客を迎え、平均滞在日数17日間、平均訪問都市は5都市に上った。 訪日ファンの6割以上が初訪日であり、ファン一人当たりの一日消費額は2018年の訪日客の平均消費額の4. 6倍であった。 北は札幌から南は熊本まで、その経済効果は全国的であったことの他、この大会で46,000人の雇用が維持・創出され、また13,000人のボランティア(多くはTokyo 2020のボランティア)の機会を創出。 組織委員会のチケット販売戦略も成功し、合計183万枚のチケットを売り上げた。 45試合の収容率は99パーセントを記録し、ラグビーワールドカップ史上最も成功した大会となり、またメジャースポーツイベント史上でも最も成功した大会となった。 また、日本で開催したスポーツイベントとしても史上最大の大会となった。 また、大会開催中大きな台風に2度も見舞われたのにも関わらず、16カ所に設置したファンゾーンのうちいずれかを訪れたファンの数は113万人を記録した。 満席となったスタジアムは、日本のファン(うち半数以上が初めてラグビー観戦を経験)と陽気な訪日ファンで埋め尽くされて特別な雰囲気を作り出し、日本代表「ブレイブ・ブロッサムズ」が史上初めてベスト8入りする健闘ぶりが更に日本の誇りを駆り立てた。 9割の日本人は、この大会を日本で開催したことで日本人の心と誇りを惹きつけ、興奮感と一体感を作ったと思っている。 特別な、忘れることができない、記録破りの大会• アジア、日本で開催した初めてのラグビーワールドカップ• 日本、そしてラグビー界にとってこれまでにない44日間のグローバルウィンドーでの大会• 東京をはじめ、全国的な記録的経済効果• 訪日客242,000人、平均滞在日数17日(RWC 2015の平均滞在日数は14日)• 訪日ファンの6割が初訪日• ファンの9割が再び日本を訪れたいと答えている• ファンの8割が格別な経験を味わったと答えている• 総額43億ポンドの経済的影響、GDPが23億ポンド上昇• 訪日客の消費総額23億ポンド• 訪日客の一泊平均支出額286ポンド、平均総額4,574ポンド、England 2015大会 (2,400ポンド)の約2倍• RWC 2019の訪日客の平均消費額は2018年の訪日客の6倍• 大会開催で46,340人の雇用維持・創出• RWC 2019の訪日客の平均滞在日数は17日(RWC 2015の平均滞在日数は14日)• チャイルドファンドがワールドラグビー 、アジアラグビー、JRFUとのパートナーシップを通じて寄せられた、パス・イット・バック プログラムへの寄付は200万ポンド• 225万人のアジアの人々がImpact Beyondプログラムを通じてラグビーを体験。 (日本では769,000人の小学生が学校でタグラグビーを体験)• 釜石復興スタジアムをはじめとする多くの施設がラグビーやコミュニティースポーツのレガシーとして残る もう一つの報告書として、大会終了直後にまとめられたニールセン・スポーツDNA報告書があり、この中でも大会を開催したことによる日本人の誇りと幸福感への大きな影響を示している。 一般人口の78パーセントが、ラグビーワールドカップをラグビーのいわゆる「非伝統国」で開催したことは今後のラグビーにとってポジティブなことだと考えている。 一般人口の46パーセント(うち70パーセントが日本国内)は、ラグビーワールドカップが2019年で最もエキサイティングなスポーツイベントだったと思っている(思わなかったのは25パーセント)。 国際大会を開催する価値の高さと開催国としての誇りの高さを示した。 2018年には26パーセントだったラグビーワールドカップへの関心度が、2019年には約2倍の44パーセントに伸び、5千万人以上の増加。 日本にいる10人中9人が、ラグビーワールドカップの日本での開催は、人々の想像を掻き立て、国の誇り、エキサイトメントとエンゲージメントを高めたと信じている。 日本にいる10人中9人が、日本代表チームの準々決勝進出を応援していた。 「にわかファン」または大会開催中にファンになった新しいファンの33パーセント増を反映。 83パーセントの日本人が、ラグビーワールドカップを日本で開催したことは、ラグビーにとってポジティブなレガシーを創造し、将来、さらに日本がメジャーなラグビー大会の開催国となる機会ができたと信じている。 ラグビーワールドカップを追っていた日本の国民の50パーセントは昨年からラグビーに興味を持ち始めた。 ラグビーワールドカップが開催国にとってレガシー創造の大きな機会であることが強調された。 今大会を追っていた日本人の54パーセントが、今回が初めてのラグビーワールドカップ体験だった。 ラグビーワールドカップについて知っていた人々の74パーセントが、大会がより多くの子供達がラグビーをプレーしたくなるきっかけになると信じている。 ワールドラグビー のビル・ボーモント会長は次のように述べている。 「この包括的なEY報告書は、Japan 2019がフィールド内外を問わず、最も素晴らしいラグビーワールドカップであったことを再び証明しています。 」 「ラグビーワールドカップが最も愛され、最も権威のあるメジャースポーツイベントの一つであることを反映し、また大会開催は社会的、経済的に大きな利益を生み、政府や加盟協会にとってローリスク・ハイリターンの魅力的な投資案件であることを証明しています。 」 ラグビーワールドカップ日本大会、また日本代表チームの大健闘のおかげで、日本の学校でもタグラグビーが導入され、769000人の子供達が体験した。 日本ラグビーフットボール協会の森重隆会長は、ラグビーワールドカップ2019が日本のラグビーの参加者の増加や人気を促す牽引力となり続けるだろうと述べている。 「ラグビーワールドカップ2019の成功に貢献した全ての皆様に心より感謝の意を表します。 」と森会長は続ける。 「ラグビーワールドカップが日本で開催され、ゲームの人気が高まり、これまでにない多くの人々に、私たちがこよなく愛するスポーツの美しさを知ってもらうことができたことを、心から感謝します。 日本中の皆様の熱心な応援のおかげで、日本代表チームは、これまでの出場の歴史の中で最高成績である準々決勝進出まで勝ち進むという歴史に残る偉業を成し遂げました。 」 「計り知れないほど大きな成功を収めたこの大会が残した貴重なレガシーはこれからも生き続け、ラグビーがみんなに愛される日本のスポーツとなるよう発展を続けていきます。 もしもチャンスが訪れれば、将来、再びラグビーワールドカップを招致し、日本代表チームを世界最高のチームにする意欲があります。 」 ラグビーワールドカップ2019組織委員会事務総長、嶋津昭氏は、日本が団結して大会を支援し、壮大なトーナメントを運営し、訪日客を歓迎してくれたことを誇りに思うと語る。 「ラグビーワールドカップ2019は、これからも長い間語り継がれてゆく忘れられないイベントとなりました。 」 「各開催都市のスタジアムとその周辺、また公式ファンゾーンはどこも大変な熱気に包まれていました。 そしてこの大会の成功は、責任感と誇りを具現化してくださった12試合会場と19都道府県の皆様の多大なご協力のおかげです。 」 「決して忘れることのない13000人のボランティアの皆様をはじめ、ラグビーワールドカップ2019の成功に貢献してくださった皆様にもう一度、私から尊敬と感謝の意を述べたいと思います。 」 「本大会の開催によって日本のスポーツ文化がより豊かになり、コミュニティーレベルからラグビーの更なる世界的発展につながることを願っています。

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開催会場|【公式】ラグビーワールドカップ2019日本大会|www.cygnus.com

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本レポートは、今後の国際イベントの企画運営、スポーツビジネスやインバウンドマーケティングのご参考としてもご活用ください。 以下は各レポートの概要です。 <開催後経済効果分析レポート> ラグビーワールドカップ2019日本大会の経済面での効果を総括したのが経済効果分析レポートです。 経済波及効果は総額6,464億円(4,309百万ポンド)に及び、ラグビーワールドカップ過去最大の経済効果であることが分かりました。 本レポートでは日本国内ならびに各開催都市の観戦客等による消費、大会運営費、スタジアム等インフラ整備などの内訳・構成を示すと共に、インバウンド情報についても言及しています。 EYはレポートの作成者として、同委員会並びに同協会の許可の下でレポートを掲示しております。 レポートは、下記のリンクにアクセスしていただくことでお読みいただけます。 大会経済効果分析レポート 大会成果分析レポート 〈EYについて〉 EYは、アシュアランス、税務、トランザクションおよびアドバイザリーなどの分野における世界的なリーダーです。 私たちの深い洞察と高品質なサービスは、世界中の資本市場や経済活動に信頼をもたらします。 私たちはさまざまなステークホルダーの期待に応えるチームを率いるリーダーを生み出していきます。 そうすることで、構成員、クライアント、そして地域社会のために、より良い社会の構築に貢献します。 EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバル・ネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。 アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。 詳しくは、ey. com をご覧ください。 〈EY アドバイザリー・アンド・コンサルティング株式会社について〉 EYアドバイザリー・アンド・コンサルティング株式会社はEYの日本におけるメンバーファームです。 さまざまな分野の専門性を有するプロフェッショナルがグローバルに連携し、企業が抱える経営課題に対し、最先端かつグローバルな視点と実行力で最適なアドバイザリーサービスを総合的に提供いたします。 詳しくは、www. eyjapan.

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