むかし男ありけり」で有名な歌物語は何。 ポイントQ

伊勢物語『芥川・白玉か』(昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを〜) わかりやすい現代語訳と解説 / 古文 by 走るメロス

むかし男ありけり」で有名な歌物語は何

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業平朝臣が隅田川で都鳥を見た季節はいつなのか?を考えてみました・・

むかし男ありけり」で有名な歌物語は何

つまり在原業平は 父方の血を辿れば平城天皇の孫であり、 母方の血を辿れば桓武天皇の孫という非常に高貴な生まれであった。 しかし、業平はその高貴な生まれに反して不遇な立場を過ごしたようだった。 というのも810年に起きたが原因である。 薬子の変はいわばと平城上皇の政変争いであったが、平城上皇はこの争いに敗れ、平城上皇の子孫たちは皇位継承権を剥奪され、皇族の身でありながら厳しい立場に立たされることになった。 826年には業平は臣籍降下し、在原朝臣性を名乗っている。 その後もしばらく官職に就いた記録はなく、不遇な時期を送っていたようだ。 しかし、在原業平と聞いて私たちが真っ先に思い浮かべるのはどちらかといえば 華やかなイメージだ。 それは『伊勢物語』に見られるような業平の恋多き生涯に影響しているのだろう。 業平の数多き恋 在原業平といえば、『』序文において代表的な歌人の一人として数えられている、いわゆる 六歌仙の一人である。 業平の死後に成立した『日本産代実録』には業平について次のような記述がある。 「体貌閑麗、放縦不拘」「略無才学、善秀歌」 容貌は美麗であり自由奔放な性格、そして学に欠けるが和歌は素晴らしいと、そんな記述が存在する。 この時より業平は 美男子として有名だったようだ。 美男子でしかも和歌が上手かった業平、彼に関する恋の逸話は数多く存在する。 親友の娘を妻にしたり伊勢神宮の巫女と関係を持ってしまったりとなかなかに波乱万丈な恋愛を繰り返していたようである。 高子との秘密の恋と『伊勢物語』 後にの女御となる藤原高子はを父に持ち、当時栄華を極めていた藤原家の高貴な女性だった。 かたや時期天皇の女御、かたや臣籍降下した落ちぶれ貴族と身分違いの二人、そんな二人の秘密の恋は『伊勢物語』を通しても伺い知ることができる。 業平と高子は駆け落ちを試みたという逸話があるのだが、『伊勢物語』の『 芥川』の段ではそんな二人の駆け落ちの様子が垣間見える。 業平35歳、高子18歳、許されぬ身分違いの恋に燃えた二人はある日 駆け落ちを断行する。 しかし、二人が試みた駆け落ちは一夜であっさりと追手に追いつかれてしまい二人の仲は引き裂かれてしまった。 『芥川』の段では、この駆け落ちのエピソードが描かれているのだが、この章段は中学生の教科書で取り上げられることも多く読んだことがある人も多いのではないだろうか。 「芥川といふ河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、かれは何ぞとなむ男に問ひける。 」 『芥川』のこの一節はあまりにも有名である。 逃げ出した男は、女を背負って芥川という川を進む。 そこで女は草の上の露を見て「 あれは何ですか」と尋ねたというのだ。 草の葉の露さえも知らない、高子の世間知らずぶりは余程のものである。 それほどまでに高子は高貴な育ちなのだということがこの何気ない問いかけに現れている。 「夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、… 中略 …あばらなる倉に、女をば奥におし入れて、男、弓、やなぐいを負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。 」 『芥川』の後半にはこんな一節がある。 夜も更けてきた上に天候も荒い、男は道中のあばらやの倉に女を押し込め、自分は女を守るようにして戸口に立って夜が明けるのを待った。 しかし、その倉には鬼が潜んでおり、女は鬼に食われてしまったという締めくくりである。 鬼とは言わずもがな高子を追ってきた追手の者たちであり、二人の駆け落ちの失敗を描いているのだ。 「鬼に食われてしまった」という表現は、駆け落ちに失敗して落胆する業平の失意を痛いほど感じるではないか。 最後に 不遇な身の上に生まれながらも恋多き人生を歩んだ在原業平。 『伊勢物語』では脚色を交えながら恋多き色男、業平の人生を鮮やかに描き出している。 在原業平という人物の人となりを探るにおいて、もはや『伊勢物語』は欠かせない大きな存在であると言えるだろう。 関連記事: カテゴリー• 129• 380• 367• 1,433• 150• 817• 595• 173• 100• 181• 145• 135• 109• 568•

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在原業平と『伊勢物語』について調べてみた

むかし男ありけり」で有名な歌物語は何

かすかべのことを続けます。 「都鳥の碑」と「業平橋」のことを書いてきました。 記事を書くにあたって、いろいろ調べてみました。 すると、その過程である疑問が… 大落古利根川のユリカモメ 在原業平朝臣 在原業平(狩野探幽三十六歌仙)(Wikipediaより) 「むかし、男ありけり…」で始まる伊勢物語の主人公とされる在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)は、第51代平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の第五子。 官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。 また、古今和歌集の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人とされています。 なお、『伊勢物語』は、古くから在原業平実伝の物語であるとされてきました。 伊勢物語 第九段「東下り」 『伊勢物語』には、 業平朝臣は、藤原氏の権勢が日毎につのりゆくのを憤って、心は常に穏やかならず、平安の都に住むのも厭とわしくなり、東国に居場所を求めて下って行った。 と そして、九段の「東下り」後段には、 なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大 おほ きなる河あり。 それを隅田河といふ。 その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守 わたしもり 、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京 きやう に思ふ人なきにしもあらず。 さるをりしも、白き鳥の、はしあしと赤き、鴫 しぎ の大きさなる、水の上に遊びつつ魚 いを を食ふ。 京 きやう には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。 渡守に問ひければ、「これなん都鳥 みやこどり 」と言ふを聞きて、 名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思う人はありやなしやと とよめりければ、舟こぞりて泣にけり。 訳としては、 そうして旅枕をかさねて、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡し場に着き、渡し守に急かされ、舟に乗って川を渡ろうとしたとき、川の水面に遊ぶくちばしと足が赤く翼の白い水鳥の群れを見て、都では見たこともない鳥と思い、渡し守に尋ねた。 すると、渡し守は「みやこ鳥」と答えたので、業平は京都のことを思い出して、ひしひしと迫る旅愁とともに懐旧の想いに心乱れて、 「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと」と歌を詠まれた。 と、一部略しましたが、概ねこのように書かれています。 風流錦絵巻伊勢物語 歌川春章画。 第九段の東下り隅田川の景を描く。 (Wikipediaより) この「東下り」の段は有名ですね。 高校生の時習いました。 その頃は、当地とは全く無関係でしたが、半世紀を経て、業平のことを書くなんて、今はとても不思議な気がしています。 都鳥を見た季節は? ところで、業平朝臣が「東下り」の時、国境の隅田川の渡し場で、都鳥を見たとされる季節は一体いつなのでしょうか? どうでもいいことですが、とても気になります。 都鳥をユリカモメだとすると、隅田川の水面にいるのは、晩秋から早春(3月頃?)までだと思います(古利根川の場合はそうですので)。 第九段の前半で、愛知県八橋で杜若(かきつばた)の花を織込んで、 からころも 着 き つつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ 『新版 伊勢物語』(石田譲二=訳注、角川文庫466) と詠んでいます。 杜若 かきつばた という花は5月の上旬〜中旬に咲く花です。 それから、駿河の宇津の山 現在の静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠 で富士の山を見て、歌を詠み、五月のつごもり 晦日 に、富士山には雪が白く残っていると書かれています。 五月末には駿河 静岡県 にいたことになります。 旧暦の五月末は、新暦だと七月初旬でしょうか。 そして、武蔵国と下総国の境にある隅田川の渡し来たのは、その後ということになりますので、六月に入ってから。 当然、旧暦ですので、新暦だと、八月の初め頃でしようか。 そうすると、いわゆる冬羽(頭部が白い)のユリカモメは隅田川にはいないことになりますが… もし、いたとしても夏羽は頭部が頭巾をかぶっているかのような黒褐色になるといわれますので、「白き鳥」には見えないと思います。 芭蕉に随行した曾良の随行日記のように書いてあれば別ですが、『伊勢物語』はあくまで「歌物語」であり、「紀行文」ではありませんので、日時を追って書いてあるわけはないと思います。 後の編集や増補があったのでしょうか。 もしかしたら、隅田川に至る間、いろいろな土地を巡り、晩秋から初冬に武蔵国と下総国の国境に来たという解釈も成り立ちますが、そうするとその間は何処に?と、また疑問が生じます。 まあ、それはないでしょうが。 伊勢物語と古今和歌集 なお、前掲書の補注で、訳者は、既に歌が古今和歌集等に載っていることなどを踏まえて、 〜略 諸種の点から見て、四段および九段の八橋と都鳥の両条が先に存在し、初冠本の成立した時に、宇津の山と富士の山との両条が加えられて、現在見るような九段が構成されたものであろう。 以下略〜 と注釈されています。 なお、「昔をとこありけり、伊勢の国に狩りに使ひに行きけるに〜」の段から始まっている写本を「狩使本 かりつかいぼん 」という。 確かに、「かきつばた」と「都鳥」の歌は、古今和歌集に、「かきつばた」の歌は410番、「都鳥」の歌は411番として載っています。 古今和歌集の都鳥の歌「411番」の詞書 ことばがき には、 武蔵の国と下総 しもつふさ の国との中にある隅田川のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに 下りゐて、思いやれば限りなく遠くも来にけるかなと思いわびてながめをるに 〜以下略〜 『新版古今和歌集』(高田祐彦訳注、角川ソフィア文庫) となっており、下線の 「下りゐて」の部分の註釈として、 「馬を下りて座って」と書いてあります。 業平朝臣はどうやら馬に乗って旅をしていたようです。 『伊勢物語』には、そのような記述はありませんので、てっきり徒歩で旅をしていたとばかり思っていましたが、馬に乗っていたとは知りませんでした。 馬を使うなんてさすが高貴なお方なんですね。 業平朝臣と紀氏そして春日部氏の縁 また、業平朝臣は、当時、妻帯していたようです。 「かきつばた」の歌でわかります。 業平の妻とされる女性は、紀有常 きのありつね の娘です。 もっとも、妻と言っても平安時代のことですので、単なる愛人かも知れませんが、でも、やんごとなきお方の娘さんですので、やはり正妻なのでしよう。 紀有常のことは『伊勢物語』第十六段に書かれています。 有常は、『土佐日記』を書いた紀貫之 きのつらゆき と同じ紀氏 きうじ 一族。 そういえば、紀貫之はこの『伊勢物語』の作者という説もありますね。 その紀貫之で知られる紀氏 きうじ は、春日部氏の先祖とも言われています。 もちろん時代は全く異なりますが、不思議なご縁といえます。 なお、春日部八幡神社を勧請したのは、鎌倉時代に当地を支配支配していたとされる春日部氏です。 ということで、 まとめ 別に、文学論を展開するわけではありませんので、これで終わりますが、いろいろ考えると、とても面白いですね。 『伊勢物語』をもとに、業平一行が隅田川に来た季節について少し考え、遊んでみました。 果たして、業平は隅田川の水面に遊ぶ冬羽の都鳥 ユリカモメ をいつ見たのでしょうか? 春、夏なのでしようか、それとも秋、冬? おそらく多くの研究者の研究成果があるのでしようが、浅学な私にはわかりません。 『伊勢物語』は千年以上もの長い間、業平朝臣の実伝として多くの人に読み継がれてきた大事な文化遺産ですので、私ごときがこれ以上言うのは僭越ですので差し控えます。 でも、業平朝臣は昔の隅田川 できれば当地の で冬羽の白い都鳥を見て、歌を詠んだと思いたいですね。 そして、ユリカモメに「お前さんは、一体、何時どこで業平朝臣に会ったんだい?」と、問いたい気持ちです。

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