ガブリエル フォーレ。 室内楽曲が好きならガブリエル・フォーレを知ってみよう!

フォーレ「パヴァーヌ」

ガブリエル フォーレ

【経歴】 南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。 そこで音楽的才能を見出され、9歳の時に古典宗教音楽学校へ入学する。 ここで、フォーレの学習時代の背景として、1853年にルイ・ニデルメイエールによって創設されたこの学校について理解しておく必要があるだろう。 だがオルレアン家のルイ・フィリップが七月王政(1830-1848)を始めると経営資金が打ち切られ閉鎖される。 以後、第二共和制(1848-1852)に至るまで、宗教音楽は歴史的な関心からフェティスやモスコヴァ公爵ら博識の音楽家によって探究が続いたが、国家的な支持基盤は失われていた。 1852年にナポレオン三世が第二帝政を敷き、熱狂的なカトリック信者であるウジェニー伯爵夫人をスペインから王妃に迎えたことも影響し、再び宗教音楽の振興が図られるようになった。 こうして1853年、1830年に閉鎖されたショロンの宗教音楽学校の延長線上に設立されたのが作曲家ルイ・ニデルメイエールを学長とした古典宗教音楽学校で、この機関はやがてニデルメイエール校と通称されるようになる。 皇帝ナポレオン三世が支援したこの学校では、従ってローマ・カトリックの伝統に即して対位法に基づく多声音楽とグレゴリオ声歌が重視され、パレストリーナ様式の対位法に加え、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典的大家の作品が教育のモデルとなった。 設立されて間もないニデルメイエール校において、フォーレは理論的基礎である和声・対位法に加え、クレマン・ロレ(1833-1909)のもとでオルガンを、ニデルメイエール自身の下で単旋律聖歌を学んだ。 その後、1861年のニデルメイエールの死去に伴い、ピアノ科教授としてサン=サーンス(1835-1921)が赴任したことで、フォーレはカリキュラムには含まれていなかったショパン、シューマン、リスト、そしてヴァーグナーらの音楽を学ぶ契機を得る。 サン=サーンスとの交流は生涯続くこととなり、その親交の深さは往復書簡などから読み取ることができる。 ニデルメイエール校卒業後のフォーレは、レンヌやパリの教会でオルガニストを歴任する一方で、1871年のフランス国民音楽協会の創立にもメンバーの一員として加わった。 これらの教会オルガニストや指揮者としての活動、および国民音楽協会主催の演奏会での自作品の発表が、フォーレの音楽家としてのキャリアの基礎を築くことになる。 1896年6月にパリのマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任後、10月にはマスネの後を継いでフォーレはパリ音楽院作曲科教授となり、ラヴェルやケクランらを教えた。 この頃には彼の社会的名声も大きくなり、『ル・フィガロ』紙で音楽評論を担当するなどの執筆活動も行うようになる。 1905年、5月に開催されたローマ大賞においてラヴェルが落選したことでパリ音楽院への批判が集中する事態が起こる。 この「ラヴェル事件」によって時の院長テオドール・デュボワは辞職をし、その後任として、翌6月にフォーレが音楽院の院長に選出される。 この人事は音楽界に衝撃を与えたが、音楽院出身でもなく学士院会員でもないフォーレの立場は旧体制の刷新に適していたのだろう。 就任当時の1905年6月14日の『フィガロ』紙には、「古典的であると同時に現代的である芸術の補佐役」を望むと同時に「自由主義」を奨励する、新院長フォーレの教育方針が掲載されている。 音楽院では、この方針に基づいたカリキュラムの改革が進められることとなり、声楽科で扱われるレパートリーの拡充や作曲科の科目の増設、入学試験の制度変更などが行われた。 この一連の改革は、保守的な一方で、新しい潮流にも寛容であったフォーレの芸術観が表れた一つの例と言える。 また、院長職に対する熱心な姿勢は、作曲家としてばかりでなく教育家としての彼の立場を確固たるものにもした。 1909年、フォーレは学士院の会員に選ばれ、また国民音楽協会よりも一層現代的な音楽を追求する目的でラヴェルらが組織した独立音楽協会の会長を引き受けた。 一方で、1917年に国民音楽協会の会長にも選出される。 この時フォーレ自身は、両協会に対して中立の立場を示して双方の和解を提唱するも、失敗に終わっている。 1920年に院長職を退いた後も、その人望の厚さは変わることなく、1922年にはソルボンヌ大学で彼の業績を讃える記念式典が行われ、同じ年の『ルヴュ・ミュジカル』誌では本人の回想録と弟子たちによる作品解説というフォーレ特集号が組まれた。 1923年にレジオン・ドヌール勲章グラン=クロワ章(1等勲章)を授与されたフォーレは翌24年11月に亡くなる。 葬儀もマドレーヌ教会で《レクイエム》が演奏される中で国葬という形で営まれた。 このようにフランスを代表する作曲家の一人と認められたフォーレは、現在パリのパッシーの墓地で妻のフルミエ家一族とともに静かに眠っている。 【作品】 フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。 もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。 フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。 具体的には、13ずつある《夜想曲》と《舟歌》の他、ニデルメイエール校時代に書かれた《3つの無言歌》op. 17(1863年頃作曲、1880年出版)、そして《バラード》op. 19(1879年作曲、1880年出版。 ピアノと管弦楽のための編曲稿は1881年作曲)、5つの《即興曲》、4つの《ヴァルス・カプリス》、《主題と変奏》op. 73(1895年作曲、1897年出版)、4手のための《ドリー》op. 56(1864-96年作曲、第1曲のみ1894年出版、6曲全体では1897年出版)などがあり、ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。 しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。 もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。 第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。 《レクイエム》op. 48(初期稿、1893年に初演)が作られる一方で、その多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。 そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。 しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。 とはいえ《レクイエム》op. 48(最終稿、1900年初演)や劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》op. 80(1898年作曲および初演、管弦楽組曲としては1901年初演)やオペラ《プロメテ》op. 82(1900年作曲および初演)、《ペネロープ》(作品番号なし、1907-12年作曲、1913年初演)などの大規模作品の発表機会が多くなっている。 また、ピアノ五重奏曲やピアノ三重奏曲op. 120(1922-23年作曲、1923年出版)、弦楽四重奏曲op. 121(1923-24年作曲、1925年出版)に代表される、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。 このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。 ピアノ独奏曲に関しては初期ほど多作ではないが、例えば《即興曲》第5番op. 102(1908-09年作曲、1909年出版)での全音音階的旋律の多用、《夜想曲》第13番op. 119(1921年作曲、1922年出版)の対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。 なお、2010年よりベーレンライター社から順次刊行されている『フォーレ全集』(7シリーズ28巻、2013年4月現在で既刊4巻)において、特に創作初期に多い未出版作品、例えばヴァイオリン協奏曲op. 14のアレグロ楽章(1878-79年作曲)、あるいは管弦楽組曲op. 20(1866-73年作曲)などが盛り込まれる予定であり、続刊の待たれるところである。 1いわゆる足踏みリード・オルガンの一種だが、オルガンとは異なり踏み具合が直接音の強弱変化に影響する。 19世紀にピアノとともに広く普及していた。 【経歴】 南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。 そこで音楽的才能を見出され、9歳の時に古典宗教音楽学校へ入学する。 ここで、フォーレの学習時代の背景として、1853年にルイ・ニデルメイエールによって創設されたこの学校について理解しておく必要があるだろう。 だがオルレアン家のルイ・フィリップが七月王政(1830-1848)を始めると経営資金が打ち切られ閉鎖される。 以後、第二共和制(1848-1852)に至るまで、宗教音楽は歴史的な関心からフェティスやモスコヴァ公爵ら博識の音楽家によって探究が続いたが、国家的な支持基盤は失われていた。 1852年にナポレオン三世が第二帝政を敷き、熱狂的なカトリック信者であるウジェニー伯爵夫人をスペインから王妃に迎えたことも影響し、再び宗教音楽の振興が図られるようになった。 こうして1853年、1830年に閉鎖されたショロンの宗教音楽学校の延長線上に設立されたのが作曲家ルイ・ニデルメイエールを学長とした古典宗教音楽学校で、この機関はやがてニデルメイエール校と通称されるようになる。 皇帝ナポレオン三世が支援したこの学校では、従ってローマ・カトリックの伝統に即して対位法に基づく多声音楽とグレゴリオ声歌が重視され、パレストリーナ様式の対位法に加え、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典的大家の作品が教育のモデルとなった。 設立されて間もないニデルメイエール校において、フォーレは理論的基礎である和声・対位法に加え、クレマン・ロレ(1833-1909)のもとでオルガンを、ニデルメイエール自身の下で単旋律聖歌を学んだ。 その後、1861年のニデルメイエールの死去に伴い、ピアノ科教授としてサン=サーンス(1835-1921)が赴任したことで、フォーレはカリキュラムには含まれていなかったショパン、シューマン、リスト、そしてヴァーグナーらの音楽を学ぶ契機を得る。 サン=サーンスとの交流は生涯続くこととなり、その親交の深さは往復書簡などから読み取ることができる。 ニデルメイエール校卒業後のフォーレは、レンヌやパリの教会でオルガニストを歴任する一方で、1871年のフランス国民音楽協会の創立にもメンバーの一員として加わった。 これらの教会オルガニストや指揮者としての活動、および国民音楽協会主催の演奏会での自作品の発表が、フォーレの音楽家としてのキャリアの基礎を築くことになる。 1896年6月にパリのマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任後、10月にはマスネの後を継いでフォーレはパリ音楽院作曲科教授となり、ラヴェルやケクランらを教えた。 この頃には彼の社会的名声も大きくなり、『ル・フィガロ』紙で音楽評論を担当するなどの執筆活動も行うようになる。 1905年、5月に開催されたローマ大賞においてラヴェルが落選したことでパリ音楽院への批判が集中する事態が起こる。 この「ラヴェル事件」によって時の院長テオドール・デュボワは辞職をし、その後任として、翌6月にフォーレが音楽院の院長に選出される。 この人事は音楽界に衝撃を与えたが、音楽院出身でもなく学士院会員でもないフォーレの立場は旧体制の刷新に適していたのだろう。 就任当時の1905年6月14日の『フィガロ』紙には、「古典的であると同時に現代的である芸術の補佐役」を望むと同時に「自由主義」を奨励する、新院長フォーレの教育方針が掲載されている。 音楽院では、この方針に基づいたカリキュラムの改革が進められることとなり、声楽科で扱われるレパートリーの拡充や作曲科の科目の増設、入学試験の制度変更などが行われた。 この一連の改革は、保守的な一方で、新しい潮流にも寛容であったフォーレの芸術観が表れた一つの例と言える。 また、院長職に対する熱心な姿勢は、作曲家としてばかりでなく教育家としての彼の立場を確固たるものにもした。 1909年、フォーレは学士院の会員に選ばれ、また国民音楽協会よりも一層現代的な音楽を追求する目的でラヴェルらが組織した独立音楽協会の会長を引き受けた。 一方で、1917年に国民音楽協会の会長にも選出される。 この時フォーレ自身は、両協会に対して中立の立場を示して双方の和解を提唱するも、失敗に終わっている。 1920年に院長職を退いた後も、その人望の厚さは変わることなく、1922年にはソルボンヌ大学で彼の業績を讃える記念式典が行われ、同じ年の『ルヴュ・ミュジカル』誌では本人の回想録と弟子たちによる作品解説というフォーレ特集号が組まれた。 1923年にレジオン・ドヌール勲章グラン=クロワ章(1等勲章)を授与されたフォーレは翌24年11月に亡くなる。 葬儀もマドレーヌ教会で《レクイエム》が演奏される中で国葬という形で営まれた。 このようにフランスを代表する作曲家の一人と認められたフォーレは、現在パリのパッシーの墓地で妻のフルミエ家一族とともに静かに眠っている。 【作品】 フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。 もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。 フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。 具体的には、13ずつある《夜想曲》と《舟歌》の他、ニデルメイエール校時代に書かれた《3つの無言歌》op. 17(1863年頃作曲、1880年出版)、そして《バラード》op. 19(1879年作曲、1880年出版。 ピアノと管弦楽のための編曲稿は1881年作曲)、5つの《即興曲》、4つの《ヴァルス・カプリス》、《主題と変奏》op. 73(1895年作曲、1897年出版)、4手のための《ドリー》op. 56(1864-96年作曲、第1曲のみ1894年出版、6曲全体では1897年出版)などがあり、ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。 しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。 もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。 第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。 《レクイエム》op. 48(初期稿、1893年に初演)が作られる一方で、その多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。 そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。 しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。 とはいえ《レクイエム》op. 48(最終稿、1900年初演)や劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》op. 80(1898年作曲および初演、管弦楽組曲としては1901年初演)やオペラ《プロメテ》op. 82(1900年作曲および初演)、《ペネロープ》(作品番号なし、1907-12年作曲、1913年初演)などの大規模作品の発表機会が多くなっている。 また、ピアノ五重奏曲やピアノ三重奏曲op. 120(1922-23年作曲、1923年出版)、弦楽四重奏曲op. 121(1923-24年作曲、1925年出版)に代表される、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。 このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。 ピアノ独奏曲に関しては初期ほど多作ではないが、例えば《即興曲》第5番op. 102(1908-09年作曲、1909年出版)での全音音階的旋律の多用、《夜想曲》第13番op. 119(1921年作曲、1922年出版)の対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。 なお、2010年よりベーレンライター社から順次刊行されている『フォーレ全集』(7シリーズ28巻、2013年4月現在で既刊4巻)において、特に創作初期に多い未出版作品、例えばヴァイオリン協奏曲op. 14のアレグロ楽章(1878-79年作曲)、あるいは管弦楽組曲op. 20(1866-73年作曲)などが盛り込まれる予定であり、続刊の待たれるところである。 1いわゆる足踏みリード・オルガンの一種だが、オルガンとは異なり踏み具合が直接音の強弱変化に影響する。 19世紀にピアノとともに広く普及していた。 フランス南西部のパミエで、教育家の父親の元に生まれた。 幼少時オルガンや宗教音楽に触れるうちに音楽の才能を見出され、1854年からパリの古典宗教音楽学校でニデルメイエールに学んだ。 1861年からは同校で教職を得たサン=サーンスにピアノと作曲を学ぶようになり、同時代の広範な音楽を知るようになった。 1865年に卒業後はフランス各地の教会オルガニストを歴任。 70年8月から約半年間は志願兵として普仏戦争参加。 74年よりパリ、マドレーヌ教会でオルガンを演奏するようになり、77年に同教会楽長となった。 70年代末は複数回ドイツに旅行し、ヴァイマルでは に出会っている。 80年代には父の死をきっかけとして名高いレクイエムを作曲。 96年からパリ音楽院で作曲と対位法の教授となり、 、 、 といった才能ある音楽家を育てた。 晩年は次第に聴力を失ったが、1920年の音楽院引退後も作曲を続け、ピアノ五重奏などの名作を生み出した。 死後はその大きな功績を称えられ、フランス国家による国葬で弔われた。 フォーレは交響曲やオペラなど大規模な作品をあまり書かず、ピアノ曲や室内楽、歌曲を中心に作曲し、作品内容も内省的、叙情的な傾向を示している。 フォーレは当時としては長寿に恵まれ、 より早く生まれ、その死後まで生きた。

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室内楽曲が好きならガブリエル・フォーレを知ってみよう!

ガブリエル フォーレ

こう表現したのはフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル(1875ー1937年)です。 パリ国立高等音楽院時代の師であったこともあり、ラヴェルはフォーレ(1845ー1925年)の歌曲を高く評価していました。 ところで日本のクラシック音楽シーンの中で、フランス音楽というのは、どのような受けとめ方をされているのでしょうか。 ドイツ系の音楽については、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなど、さほど音楽に馴染みのない人でも名前くらい知っています。 ブラームス、シューマン、ワーグナーあたりの音楽家も、それなりに知られているでしょう。 フランス近代音楽の巨匠たちです。 そしてガブリエル・フォーレは? それほど知られていないかもしれません。 もちろん音楽に詳しい人は知っているでしょうけれど。 おそらく日本ではドイツ音楽=クラシック音楽、というくらいドイツ・オーストリア系の音楽家の存在が大きいのだと思います。 ピアニストの花房晴美さんが、日経新聞ウェブ版のインタビューで、ドイツ音楽優勢の日本で、サティなどのフランス音楽をもっと広めたい、と語っていたことがありました。 フランス音楽はドイツ・オーストリア音楽と比べると、どこか柔らかでちょっと気まぐれ、そして軽やかな印象があるように思います。 またエスプリや品のいい官能も感じられます。 ドイツ音楽が規律ただしく重量感のある四角いイメージだとすると、フランス音楽は捉えどころのないフワリとした曲線のような感じでしょうか。 ライ麦入りの黒くてずっしりしたパンがドイツ音楽とするなら、サクッと軽く香ばしいクロワッサンがフランス音楽。 もちろんすべての楽曲にこれが当てはまるわけではありませんが。 そんなフランス音楽の中でも歌曲は、ドイツのリートやイタリア歌曲とともに、魅力あふれる聴く楽しみの多いジャンルかもしれません。 フランスにおける歌曲の真の創始者はシャルル・グノーである。 ラヴェルは『ラ・ルーブ・ミュジカール(La Revue musicale)』というフランスの音楽誌の中で、このように書いています(『ガブリエル・フォーレの歌曲』1920年10月)。 さらに17、18世紀フランスのクラブサン音楽の「ハーモニーの神秘」を再発見したのもグノーである、と位置づけています。 グノーのあとそれを引き継いだのが、ガブリエル・フォーレとエマニュエル・シャブリエ(1841ー1941年)であり、さらにはビゼー、ラロ、マネス、そしてクロード・ドビュッシーとつづいていく、これがラヴェルのフランス近代音楽に対する見解です。 ラヴェルによれば、「どの作曲家も多かれ少なかれ、グノーの恩恵を受けている」とのこと。 中でも歌曲に対するラヴェルの評価は高く、以下のように書いています。 フォーレの歌曲を研究することなしに、この作曲家の真価を理解することは不可能である。 彼の歌曲は、ドイツのリートが支配していたヨーロッパの歌曲に、フランス音楽の価値を示すものだった。 この時代、つまり普仏戦争(1870ー1871年)でプロイセン(ドイツ)に敗れたあとのフランスは、ナショナリズムの影響下で自国音楽の普及につとめていた時期でした。 ラヴェルは、フォーレの音楽的特徴について、次のように書いています。 フォーレの作品では、構造が熟考されることはなく、もっと自然発生的である。 それにより柔軟性を生んでいる。 フォーレは1896年よりパリ国立高等音楽院で作曲科の教授を務め、ラヴェルは1898年からフォーレのクラスで学びはじめます。 フーガの試験に2度失敗したラヴェルは、1900年にクラスから除名されますが、その後の3年間、聴講生として授業を受けることをフォーレから許されたといいます。 『秘密/Le Secret』聴き比べ 『ガブリエル・フォーレの歌曲』の中で、ラヴェルはフォーレの歌曲のいくつかを取り上げ、それぞれに論評を加えています。 その中から『秘密(Le Secret)』を紹介しましょう。 『秘密』はフォーレの歌曲の中でも最も美しい「リート」の一つである。 この曲では、魅力あふれるメロディーラインと繊細なハーモニーがうまくマッチしている。 曖昧模糊とした、耳にしたことのない和声の解決(協和音への移行)、遠隔調(遠い調性)への転調、予測のつかない道筋による主音への回帰。 これらはフォーレが巧みな技量で、ごく初期からつかってきた危険なテクニックの一つである。 シャブリエもこれに似たテクニックをつかっているが、フォーレ、シャブリエどちらにも、それぞれの手法がある。 シャブリエはよりくっきりと直接的な形で、フォーレは控えめに品良く。 シャブリエがその効果を強調してみせるのに対し、フォーレは尖ったところを削り、さらにその先をいく。 ラヴェルはなぜ、この曲に対して、括弧付きで「リート」という言葉をつかったのでしょう。 ドイツ歌曲に匹敵する、ということを強調する意図なのか。 さて、ここで『秘密』がどんな歌なのか、3人の歌い手による歌唱で聴き比べてみましょう。 まずは20世紀後半に活躍したフランスを代表するソプラノ歌手、レジーヌ・クレスパン(1927ー2007年)の歌唱から。 クレスパンはワーグナーのオペラを得意とするなど、ドラマティックな歌いぶりで知られていますが、フォーレの歌曲はどれも、優しくやわらかな声で控えめに歌っています。 次に紹介するのはアンネ・ソフィー・フォン・オッター(1955年ー)。 スウェーデンのメゾソプラノ歌手で、オペラから宗教曲、歌曲とレパートリーは広く、バッハ以前のバロックや世紀末ウィーンの作曲家にも取り組んでいます。 美しく、知的で、自然な歌いぶりです。 3人目はNGATARIのヴォーカリスト、Jessicaによる歌唱です。 Jessicaのボーイッシュな歌声が、中川瑞葉のほどよい現代感覚のピアノでサポートされ、エレガントなフォーレの楽曲に清新な風を吹き込んでいます。 『秘密(Le Secret)』はフランスの作家、アルマン・シルヴェストル 1837ー1901年 の詩による歌です。 その詩を日本語訳で紹介します。 1865年、フォーレ20歳のときの作品です。 ラヴェルは「フォーレの個性は初期の作品によりはっきりと現れている」と書き、この歌曲が非常に若いときに書かれたことに驚いています。 まず最初はポーリン・ルトレの歌で聴いてみましょう。 どのような歌い手か、資料がなくわかりませんが、速めのテンポで淡々と歌い現代的なフォーレです。 SoundCloudのレビューでは「完璧な歌声」「夢の中でうっとりさせられる」など18のコメントが寄せられていました。 ドラマティックな詩の世界(夢の中で恋人と空へ飛びたつが、夢が覚めて激しい嘆きに変わる)をほどよい情熱の込め方で、美しく感動的に歌い上げています。 フレデリカ・フォン・シュターデはドイツ系アメリカ人のメゾソプラノ歌手。 自然な発声法で、この歌を伸びやかに美しく歌っています。 かなり遅めのゆったりとしたテンポが印象的です。 『夢のあとに』の詩は、19世紀フランスの詩人ロマン・ビュシーヌによるもの。 トスカーナ地方の古い歌を元に、ビュシーヌが作品化したとも言われています。 ビュシーヌはパリ音楽院声楽科の教授で、フォーレとは同僚でした。 フォーレはこの歌以外にもビュシーヌの詩に曲をつけています。 こちらはラヴェル、ドビュッシーといったフランス歌曲だけでなく、ウェーベルンやストラビンスキー、高橋悠治作曲による作品も選ばれています。 Jessicaがすべてオリジナルのフランス語で歌っているのに対し、矢野顕子はフランス歌曲については英語版の歌詞をつかっています。 ベルカントのようなクラシックの歌唱法ではない歌い方で、クラシック界以外の歌い手が19〜20世紀の歌曲をうたい、いまの時代に問うという点で、この二つのアルバムには共通項があります。 普段ポップスを聴いている人々にとって、クラシックのビブラートがかかった歌声は馴染みにくいもの。 しかし楽曲そのものは、楽譜に特定の歌唱法が指定されているわけではなく、自由度があります。 とはいえ違うジャンルの音楽に取り組む場合、歌い手にとって、その音楽への理解度や、「歌」や「声」に対する主体性といったものが、自分のジャンルのものを歌うとき以上に強く意識されるかもしれません。 コンセプトムービーの最後で歌われる『ピエ・イェズ(Pie Jesu)』は、フォーレの『レクイエム』(モーツァルト、ヴェルディとともに「三大レクイエム」に数えられる)の中の1曲です。 死者のためのミサ曲でありながら、「死は苦しみというより、永遠の至福の喜びに満ちた開放感である」とフォーレが語っているように、レクイエムらしい崇高さに加えて、明るさや希望に満ちた楽曲で、これを歌うJessicaの真っすぐな歌唱は感動を呼びます。 このアルバムでは、各歌の間にPrefuse73によるエレクトロニック・ミュージックが挟まれ、その浮遊感がフォーレの歌曲を今の時代にぐっと引き寄せる役割を果たしています。 フォーレの歌曲の詩人たち フォーレの歌曲に詩を提供している詩人や作家として、上にあげたシルヴェストルやビュシーヌ以外に、ポール・ヴェルレーヌ(1844ー1896年)、ヴィクトル・ユーゴー(1802ー1885年)などがいます。 ラヴェルは『ガブリエル・フォーレの歌曲』の中で、ヴェルレーヌの『月の光』について次のように書いています。 多くの音楽家たちがヴェルレーヌの素晴らしい詩に魅了されてきた。 その中でフォーレはただ一人、それを音楽に変える方法を知っていた。 この名曲は、努力の必要などなく、溢れるひらめきに導かれて書かれたように見える。 詩が差し出すさまざまなイメージを無視し、メロディーは「そして噴水の水を恍惚の嘆きにみちびく」の1行のみに誘発されて生まれている。 (詩の中に登場する)仮装したリュート弾きや踊り手に乱されることなく歌は流れ、その穏やかな流れの連なりは見事だ。 フォーレが優しく、うぬぼれのない人物であったことはマドレーヌ・ ゴスによるラヴェルの評伝の中の『フォーレ:ラヴェルへの影響』の章でも語られています。 ラヴェル自身、フォーレの歌曲について、その人柄と絡めて「個人的な発露や情熱の表出において控えめ」「最もつつましい心の故郷への接近」「静かで出しゃばらず」「穏やかで微妙な表情やふるまいのため、あきさせることがない」「思慮深さが強みになっている」などの言葉で賞賛しています。 フォーレは1905年頃から聴覚を失いつつあったといいます。 特に高音部、低音部の音が正確に聞き取れなかったようです。 最初は周囲に隠していましたが、当時スイスから妻に送った手紙には「自分の最も大事なものを失いつつあることに打ちのめされている」と心の内を訴えています。 しかしフォーレはベートヴェンがそうであったように、聴覚が悪化していく中、新たな音楽の地平に行き着き、そこで作品世界をさらなる深みに導いた、とも言われています。 そういった中でつくられた、フォーレ晩年の歌曲を最後に紹介します。 『幻影(Mirages)』(全4曲)は1919年7月から8月にかけて1ヵ月足らずの間に作曲されました。 ソプラノのマドレーヌ・グレーに献呈され、その年の12月27日に、国民音楽協会で(歌曲の初演でいつもするように)フォーレのピアノ伴奏により、グレーの歌唱で初演されました。 そしてこのときが、フォーレの協会での演奏の最後のものとなったと言われています。

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ガブリエル・フォーレ

ガブリエル フォーレ

【経歴】 南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。 そこで音楽的才能を見出され、9歳の時に古典宗教音楽学校へ入学する。 ここで、フォーレの学習時代の背景として、1853年にルイ・ニデルメイエールによって創設されたこの学校について理解しておく必要があるだろう。 だがオルレアン家のルイ・フィリップが七月王政(1830-1848)を始めると経営資金が打ち切られ閉鎖される。 以後、第二共和制(1848-1852)に至るまで、宗教音楽は歴史的な関心からフェティスやモスコヴァ公爵ら博識の音楽家によって探究が続いたが、国家的な支持基盤は失われていた。 1852年にナポレオン三世が第二帝政を敷き、熱狂的なカトリック信者であるウジェニー伯爵夫人をスペインから王妃に迎えたことも影響し、再び宗教音楽の振興が図られるようになった。 こうして1853年、1830年に閉鎖されたショロンの宗教音楽学校の延長線上に設立されたのが作曲家ルイ・ニデルメイエールを学長とした古典宗教音楽学校で、この機関はやがてニデルメイエール校と通称されるようになる。 皇帝ナポレオン三世が支援したこの学校では、従ってローマ・カトリックの伝統に即して対位法に基づく多声音楽とグレゴリオ声歌が重視され、パレストリーナ様式の対位法に加え、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典的大家の作品が教育のモデルとなった。 設立されて間もないニデルメイエール校において、フォーレは理論的基礎である和声・対位法に加え、クレマン・ロレ(1833-1909)のもとでオルガンを、ニデルメイエール自身の下で単旋律聖歌を学んだ。 その後、1861年のニデルメイエールの死去に伴い、ピアノ科教授としてサン=サーンス(1835-1921)が赴任したことで、フォーレはカリキュラムには含まれていなかったショパン、シューマン、リスト、そしてヴァーグナーらの音楽を学ぶ契機を得る。 サン=サーンスとの交流は生涯続くこととなり、その親交の深さは往復書簡などから読み取ることができる。 ニデルメイエール校卒業後のフォーレは、レンヌやパリの教会でオルガニストを歴任する一方で、1871年のフランス国民音楽協会の創立にもメンバーの一員として加わった。 これらの教会オルガニストや指揮者としての活動、および国民音楽協会主催の演奏会での自作品の発表が、フォーレの音楽家としてのキャリアの基礎を築くことになる。 1896年6月にパリのマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任後、10月にはマスネの後を継いでフォーレはパリ音楽院作曲科教授となり、ラヴェルやケクランらを教えた。 この頃には彼の社会的名声も大きくなり、『ル・フィガロ』紙で音楽評論を担当するなどの執筆活動も行うようになる。 1905年、5月に開催されたローマ大賞においてラヴェルが落選したことでパリ音楽院への批判が集中する事態が起こる。 この「ラヴェル事件」によって時の院長テオドール・デュボワは辞職をし、その後任として、翌6月にフォーレが音楽院の院長に選出される。 この人事は音楽界に衝撃を与えたが、音楽院出身でもなく学士院会員でもないフォーレの立場は旧体制の刷新に適していたのだろう。 就任当時の1905年6月14日の『フィガロ』紙には、「古典的であると同時に現代的である芸術の補佐役」を望むと同時に「自由主義」を奨励する、新院長フォーレの教育方針が掲載されている。 音楽院では、この方針に基づいたカリキュラムの改革が進められることとなり、声楽科で扱われるレパートリーの拡充や作曲科の科目の増設、入学試験の制度変更などが行われた。 この一連の改革は、保守的な一方で、新しい潮流にも寛容であったフォーレの芸術観が表れた一つの例と言える。 また、院長職に対する熱心な姿勢は、作曲家としてばかりでなく教育家としての彼の立場を確固たるものにもした。 1909年、フォーレは学士院の会員に選ばれ、また国民音楽協会よりも一層現代的な音楽を追求する目的でラヴェルらが組織した独立音楽協会の会長を引き受けた。 一方で、1917年に国民音楽協会の会長にも選出される。 この時フォーレ自身は、両協会に対して中立の立場を示して双方の和解を提唱するも、失敗に終わっている。 1920年に院長職を退いた後も、その人望の厚さは変わることなく、1922年にはソルボンヌ大学で彼の業績を讃える記念式典が行われ、同じ年の『ルヴュ・ミュジカル』誌では本人の回想録と弟子たちによる作品解説というフォーレ特集号が組まれた。 1923年にレジオン・ドヌール勲章グラン=クロワ章(1等勲章)を授与されたフォーレは翌24年11月に亡くなる。 葬儀もマドレーヌ教会で《レクイエム》が演奏される中で国葬という形で営まれた。 このようにフランスを代表する作曲家の一人と認められたフォーレは、現在パリのパッシーの墓地で妻のフルミエ家一族とともに静かに眠っている。 【作品】 フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。 もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。 フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。 具体的には、13ずつある《夜想曲》と《舟歌》の他、ニデルメイエール校時代に書かれた《3つの無言歌》op. 17(1863年頃作曲、1880年出版)、そして《バラード》op. 19(1879年作曲、1880年出版。 ピアノと管弦楽のための編曲稿は1881年作曲)、5つの《即興曲》、4つの《ヴァルス・カプリス》、《主題と変奏》op. 73(1895年作曲、1897年出版)、4手のための《ドリー》op. 56(1864-96年作曲、第1曲のみ1894年出版、6曲全体では1897年出版)などがあり、ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。 しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。 もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。 第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。 《レクイエム》op. 48(初期稿、1893年に初演)が作られる一方で、その多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。 そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。 しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。 とはいえ《レクイエム》op. 48(最終稿、1900年初演)や劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》op. 80(1898年作曲および初演、管弦楽組曲としては1901年初演)やオペラ《プロメテ》op. 82(1900年作曲および初演)、《ペネロープ》(作品番号なし、1907-12年作曲、1913年初演)などの大規模作品の発表機会が多くなっている。 また、ピアノ五重奏曲やピアノ三重奏曲op. 120(1922-23年作曲、1923年出版)、弦楽四重奏曲op. 121(1923-24年作曲、1925年出版)に代表される、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。 このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。 ピアノ独奏曲に関しては初期ほど多作ではないが、例えば《即興曲》第5番op. 102(1908-09年作曲、1909年出版)での全音音階的旋律の多用、《夜想曲》第13番op. 119(1921年作曲、1922年出版)の対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。 なお、2010年よりベーレンライター社から順次刊行されている『フォーレ全集』(7シリーズ28巻、2013年4月現在で既刊4巻)において、特に創作初期に多い未出版作品、例えばヴァイオリン協奏曲op. 14のアレグロ楽章(1878-79年作曲)、あるいは管弦楽組曲op. 20(1866-73年作曲)などが盛り込まれる予定であり、続刊の待たれるところである。 1いわゆる足踏みリード・オルガンの一種だが、オルガンとは異なり踏み具合が直接音の強弱変化に影響する。 19世紀にピアノとともに広く普及していた。 【経歴】 南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。 そこで音楽的才能を見出され、9歳の時に古典宗教音楽学校へ入学する。 ここで、フォーレの学習時代の背景として、1853年にルイ・ニデルメイエールによって創設されたこの学校について理解しておく必要があるだろう。 だがオルレアン家のルイ・フィリップが七月王政(1830-1848)を始めると経営資金が打ち切られ閉鎖される。 以後、第二共和制(1848-1852)に至るまで、宗教音楽は歴史的な関心からフェティスやモスコヴァ公爵ら博識の音楽家によって探究が続いたが、国家的な支持基盤は失われていた。 1852年にナポレオン三世が第二帝政を敷き、熱狂的なカトリック信者であるウジェニー伯爵夫人をスペインから王妃に迎えたことも影響し、再び宗教音楽の振興が図られるようになった。 こうして1853年、1830年に閉鎖されたショロンの宗教音楽学校の延長線上に設立されたのが作曲家ルイ・ニデルメイエールを学長とした古典宗教音楽学校で、この機関はやがてニデルメイエール校と通称されるようになる。 皇帝ナポレオン三世が支援したこの学校では、従ってローマ・カトリックの伝統に即して対位法に基づく多声音楽とグレゴリオ声歌が重視され、パレストリーナ様式の対位法に加え、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典的大家の作品が教育のモデルとなった。 設立されて間もないニデルメイエール校において、フォーレは理論的基礎である和声・対位法に加え、クレマン・ロレ(1833-1909)のもとでオルガンを、ニデルメイエール自身の下で単旋律聖歌を学んだ。 その後、1861年のニデルメイエールの死去に伴い、ピアノ科教授としてサン=サーンス(1835-1921)が赴任したことで、フォーレはカリキュラムには含まれていなかったショパン、シューマン、リスト、そしてヴァーグナーらの音楽を学ぶ契機を得る。 サン=サーンスとの交流は生涯続くこととなり、その親交の深さは往復書簡などから読み取ることができる。 ニデルメイエール校卒業後のフォーレは、レンヌやパリの教会でオルガニストを歴任する一方で、1871年のフランス国民音楽協会の創立にもメンバーの一員として加わった。 これらの教会オルガニストや指揮者としての活動、および国民音楽協会主催の演奏会での自作品の発表が、フォーレの音楽家としてのキャリアの基礎を築くことになる。 1896年6月にパリのマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任後、10月にはマスネの後を継いでフォーレはパリ音楽院作曲科教授となり、ラヴェルやケクランらを教えた。 この頃には彼の社会的名声も大きくなり、『ル・フィガロ』紙で音楽評論を担当するなどの執筆活動も行うようになる。 1905年、5月に開催されたローマ大賞においてラヴェルが落選したことでパリ音楽院への批判が集中する事態が起こる。 この「ラヴェル事件」によって時の院長テオドール・デュボワは辞職をし、その後任として、翌6月にフォーレが音楽院の院長に選出される。 この人事は音楽界に衝撃を与えたが、音楽院出身でもなく学士院会員でもないフォーレの立場は旧体制の刷新に適していたのだろう。 就任当時の1905年6月14日の『フィガロ』紙には、「古典的であると同時に現代的である芸術の補佐役」を望むと同時に「自由主義」を奨励する、新院長フォーレの教育方針が掲載されている。 音楽院では、この方針に基づいたカリキュラムの改革が進められることとなり、声楽科で扱われるレパートリーの拡充や作曲科の科目の増設、入学試験の制度変更などが行われた。 この一連の改革は、保守的な一方で、新しい潮流にも寛容であったフォーレの芸術観が表れた一つの例と言える。 また、院長職に対する熱心な姿勢は、作曲家としてばかりでなく教育家としての彼の立場を確固たるものにもした。 1909年、フォーレは学士院の会員に選ばれ、また国民音楽協会よりも一層現代的な音楽を追求する目的でラヴェルらが組織した独立音楽協会の会長を引き受けた。 一方で、1917年に国民音楽協会の会長にも選出される。 この時フォーレ自身は、両協会に対して中立の立場を示して双方の和解を提唱するも、失敗に終わっている。 1920年に院長職を退いた後も、その人望の厚さは変わることなく、1922年にはソルボンヌ大学で彼の業績を讃える記念式典が行われ、同じ年の『ルヴュ・ミュジカル』誌では本人の回想録と弟子たちによる作品解説というフォーレ特集号が組まれた。 1923年にレジオン・ドヌール勲章グラン=クロワ章(1等勲章)を授与されたフォーレは翌24年11月に亡くなる。 葬儀もマドレーヌ教会で《レクイエム》が演奏される中で国葬という形で営まれた。 このようにフランスを代表する作曲家の一人と認められたフォーレは、現在パリのパッシーの墓地で妻のフルミエ家一族とともに静かに眠っている。 【作品】 フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。 もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。 フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。 具体的には、13ずつある《夜想曲》と《舟歌》の他、ニデルメイエール校時代に書かれた《3つの無言歌》op. 17(1863年頃作曲、1880年出版)、そして《バラード》op. 19(1879年作曲、1880年出版。 ピアノと管弦楽のための編曲稿は1881年作曲)、5つの《即興曲》、4つの《ヴァルス・カプリス》、《主題と変奏》op. 73(1895年作曲、1897年出版)、4手のための《ドリー》op. 56(1864-96年作曲、第1曲のみ1894年出版、6曲全体では1897年出版)などがあり、ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。 しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。 もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。 第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。 《レクイエム》op. 48(初期稿、1893年に初演)が作られる一方で、その多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。 そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。 しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。 とはいえ《レクイエム》op. 48(最終稿、1900年初演)や劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》op. 80(1898年作曲および初演、管弦楽組曲としては1901年初演)やオペラ《プロメテ》op. 82(1900年作曲および初演)、《ペネロープ》(作品番号なし、1907-12年作曲、1913年初演)などの大規模作品の発表機会が多くなっている。 また、ピアノ五重奏曲やピアノ三重奏曲op. 120(1922-23年作曲、1923年出版)、弦楽四重奏曲op. 121(1923-24年作曲、1925年出版)に代表される、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。 このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。 ピアノ独奏曲に関しては初期ほど多作ではないが、例えば《即興曲》第5番op. 102(1908-09年作曲、1909年出版)での全音音階的旋律の多用、《夜想曲》第13番op. 119(1921年作曲、1922年出版)の対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。 なお、2010年よりベーレンライター社から順次刊行されている『フォーレ全集』(7シリーズ28巻、2013年4月現在で既刊4巻)において、特に創作初期に多い未出版作品、例えばヴァイオリン協奏曲op. 14のアレグロ楽章(1878-79年作曲)、あるいは管弦楽組曲op. 20(1866-73年作曲)などが盛り込まれる予定であり、続刊の待たれるところである。 1いわゆる足踏みリード・オルガンの一種だが、オルガンとは異なり踏み具合が直接音の強弱変化に影響する。 19世紀にピアノとともに広く普及していた。 フランス南西部のパミエで、教育家の父親の元に生まれた。 幼少時オルガンや宗教音楽に触れるうちに音楽の才能を見出され、1854年からパリの古典宗教音楽学校でニデルメイエールに学んだ。 1861年からは同校で教職を得たサン=サーンスにピアノと作曲を学ぶようになり、同時代の広範な音楽を知るようになった。 1865年に卒業後はフランス各地の教会オルガニストを歴任。 70年8月から約半年間は志願兵として普仏戦争参加。 74年よりパリ、マドレーヌ教会でオルガンを演奏するようになり、77年に同教会楽長となった。 70年代末は複数回ドイツに旅行し、ヴァイマルでは に出会っている。 80年代には父の死をきっかけとして名高いレクイエムを作曲。 96年からパリ音楽院で作曲と対位法の教授となり、 、 、 といった才能ある音楽家を育てた。 晩年は次第に聴力を失ったが、1920年の音楽院引退後も作曲を続け、ピアノ五重奏などの名作を生み出した。 死後はその大きな功績を称えられ、フランス国家による国葬で弔われた。 フォーレは交響曲やオペラなど大規模な作品をあまり書かず、ピアノ曲や室内楽、歌曲を中心に作曲し、作品内容も内省的、叙情的な傾向を示している。 フォーレは当時としては長寿に恵まれ、 より早く生まれ、その死後まで生きた。

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