アメリカ 南北 戦争。 アメリカ南北戦争においてリンカーンは何をしたのか

アメリカの南北戦争

アメリカ 南北 戦争

2014. 06 歴史 なおきん アメリカ南北戦争は日本の金が 日本人にはあまりなじみのないアメリカ。 北軍(軍)と南軍(軍)とで戦い、120万人もの戦死者がでたアメリカ最大の戦争。 第二次大戦でのアメリカの戦死者が35万人というから、実にその4倍近い規模である。 が大統領に就任したことをきっかけに、奴隷制度を維持したい米南部の11州が次々と独立し、として建国した。 独立はフランスも認めている。 ぼくたちはを「アメリカ内戦」として考えているけど、鮮と同じように国と国の戦争とみるべきかもしれない。 23州からなる北部の人口は2300万人、対する南部は奴隷も合わせて900万人。 勝ち目はない。 史実でも北軍が勝利した。 奴隷を解放した北が、奴隷制度を維持しようとした南に勝った。 めでたしめでたし!やはり正義は勝つのだ。 程度の理解ではこの戦争に関心がわかないのもしかたない。 だけどおおかたの戦争に正義がなかったように、にもやはり正義はない。 あるのは無益な殺戮である。 まったく120万人もの死者を出す必要のない争いであった。 意外かもしれないけど、あのころのアメリカは南部のほうが経済的に豊かだった。 でされる綿花の輸出が豊富な外貨をもたらしてくれていた。 売り先は。 アメリカ北部は工業製品が中心産業だったが、それより当時の世界はまだ繊維製品加工業がもっとも儲かる商売だったのだ。 が奴隷制度をこれ以上拡めたくなかったのは人権保護が理由ではない。 工場で雇用されている白人労働者を、安価な黒人奴隷から保護したかったからである。 このまま奴隷を増やし続ければやがて工場労働者は安価な黒人に替わり、白人たちは失業してしまう。 これを恐れた多くの工場労働者がを支持した。 それで当選したようなものである。 だからこれまで奴隷制度があって初めて経済基盤がなりたっていた南部からは当然、反発がでた。 まずはが独立、続いて、、など11州が次々に脱退していった。 やがて連合し、合衆国と争うことになった。 もちろん争わない方法もあった。 実際のところ北部は戦争などする余裕もない。 カネも兵も少なかったのだ。 ハリスとの間でが結ばれたのが1858年。 がはじまる3年前のことである。 これは偶然ではない。 アメリカ歴史上最大ののきっかけは、なんとこの下田で結ばれた条約であった。 の第五条に「金銀等価交換」がある。 当時、江戸においては金貨1枚を銀貨4枚と交換できた。 つまり金の価値は銀の価値の4倍である。 いっぽう世界の相場は約15倍であった。 金1枚に対して銀15枚も必要だった。 それまでをしている日本にとって世界相場などどうでもよかった。 ほとんどが国内で流通していたのだから。 ハリスはそこに目をつけた。 「日本の金は安い!」と。 なんと世界相場の4分の1なのだから。 のいう「黄金の国」は本当だったのだ。 方法はこうだ。 まず日本にメキシコ銀貨を大量に持ち込み、これを金貨(慶長小判)と交換する。 次にに割譲されたばかりの香港へこの金貨を持ち込み、ふたたびメキシコ銀貨に交換する。 1 : 4 で交換してもらったものを1 : 15 で交換し直すのだから約4倍に増える。 ボロ儲けである。 ハリスはの部下であった。 もうけたカネは着服もしただろうが、大いに政府の軍となった。 その規模ははかりしれない。 経済的には南部より格下だった北部に日本のゴールドがもたらした功績はすさまじい。 形勢を逆転させ、一気に軍事的優位に立った。 たった2万人足らずの兵を220万人まで増やし、期間銃や大砲などの最新兵器をそろえた。 4年ものあいだ南軍と戦い、これに勝利。 敗戦した南軍の費用支払いも代替した。 さらには広大なアラスカをロシアから購入した。 おそるべき。 ぼくたちは学校でそれをならうべきだった。 そもそもカネを「金(ゴールド)」と書く風習は、日本にそれだけ金が流通していたという左証ではないか。 ちなみに2014年現在の金備蓄はアメリカ8133トンに対し、日本765トン。 黄金の国の見る影もない。 さらにひどいのが。 映画『』でもテーマになったが、サムライたちをなぎ倒した機関銃や大砲はがアメリカから買わされた(一部フランス、英国を経由)もので、どれもの余剰品か中古品であった。 が終わったのが1865年、戊申戦争は3年後の1868年。 も終わり無血革命として世界で絶賛された。 戊申戦争などする必要はなかった。 だがおこなわれた。 両軍合わせて死傷者は8千4百人あまり。 アメリカの武器商人が一役買ったといえなくもない。 かといってアメリカを恨むのも筋違いである。 での戦死者は前述のとおり120万人。 日本のゴールドなかりせば、死ななくてすんだかもしれない。 ぼくたちはもっと学ぶ必要があると思う。 こんにちわ。 いつも驚くような話題に感心させられっぱなしですが、今回も驚愕の事実ですね。 幕末に金が大量流出した、という話は、高3のときに習いました(院生だった日本史の先生が、憤りながら話してくれたので印象に残っています)。 ただ、それが南北戦争と関連があったとは・・。 いろいろと興味がわいてきますね。 一般論としては不平等条約ですし、それに負けて植民地同様、または植民地そのものになってしまっても不思議ではなかったでしょうに。 と、考えると、明治期の日本人がまた偉く思えてきます。 また、関連する疑問ですが、日米開戦時にも、こうしたことはあまり話題になっていなかったのかな・。 なんとなく聞いているのは、一般市民の対米感情は、開戦まではそれほど悪くなかった、とか。 人(民族)によっては、恨み骨髄、となりかねないことだとも思いますが、現代のわれわれを含め、やられちゃったけど、まあ仕方ないか、みたいな意識が感じられるのは、日本人の特性として興味深い気がします・・。 米国の南北戦争では、大砲の相当な数がフランス製だったと聞きます。 幕末の頃は、諸外国の軍艦が日本近海でうようよしており、幕府・新政府・諸藩問わずに簡単にチャーターできたとか。 この時代の武器や傭兵(義勇兵)の動きは意外な程世界的で驚かされます。 しかし、無知は本当に身を滅ぼしますね。 金の流出、隣国の相場さえ把握できていなかったのか、支配階級がこのカラクリに気付けなかったのか。 それなのに。 確か開国以前から、英国が同様の手口を考え出し、インド・中国・日本の三角貿易で荒稼ぎしていた・・・と学校で習ったような? それにしても諸外国には利益しかない、不平等条約を撤廃させた明治政府の努力には頭が下がります。 この時代のアメリカは米英戦争などでイギリスから経済的など独立を果たしたとは言っても、産業革命を達成しているイギリスに対し、北米各州は競り合うことは難しかったでしょうから、保護主義を貫いていましたし、それに対して南部各州はプランテーション農業による綿花などをイギリスに輸出していたことから、自由主義を主張していたと記憶しています。 今後のアメリカ経済を支える工業の確立は急務だったでしょうし、そのためにも北部の産業を成長させることはアメリカ合衆国として必須だったと思います、そのためにも北部支持の動きは必然ですし、正当化するための奴隷解放はいい口実だったでしょうね。 当時の金銀交換比率は日本史でも必ずと言っていいほど教科書に掲載されていましたし、南北戦争との関連性も感じていました。 ただし戊辰戦争との繋がりは意識していませんでした。 そっか〜!なるほど!と目から鱗状態です。 というのも幕府側をフランスが支援、新政府側をイギリスが支援しているという意識から、ナポレオン3世との絡みを考え、当時の欧州覇権の動きを気にし過ぎていました。 当時のイギリスが比較的日本に接近していたのは、アメリカの影響を利用しながらも、その影響力を増大させないためでもあったのでしょうね。 やはり歴史は面白いですし、考えさせられますね。 もっと勉強しなくては。 「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。 変化できるものだけが生き残る」by チャールズ ダーウィン。 今回の記事で「強さや正義が勝つのではない。 世界に目を開いたものが勝つ」の思いを強くしました。 ハリスと言えば、その後の日本の悲願となる「条約改正」の原因となるあの条約ですよね。 アメリカが勝ち、日本が負けた条約と申せましょう。 哀れですらある日本ですが、ハリスの勝利は世界の金相場の知識に加えて、日本の金がベラボーに安いと知っていたことが、最大の要因ですよね。 少なくともアメリカに、北軍に正義があったわけではないのは今回のエントリーで明白。 では、日本はアメリカの強さに負けたのか? 確かに、ペリーの威嚇に幕府が大いに動揺したのは確か。 でも、必ずしもそればかりとも言えないと思います。 それなくして交渉はない」と思い知り、行動し、勝ち取った歴史があるからです。 小学校6年生のときの歴史の授業で、先生が鹿鳴館を「ダンスを踊ることが条約改正に必要なんてバカだ」と嘲笑っていたのを覚えてます。 でも、42歳でモナコを訪れたとき、鹿鳴館は必要だったとわかりました。 世界をよく見なければ、生き残る術はわからない。 まずは、世界をよく見るべし。 それが今回の記事が示す「歴史の教訓」だと思いました。 「障子を開けてみよ。 外は広いぞ」by 豊田佐吉 さえぴーさん、一番ゲットおめでとさまです! 連休明けからずいぶんと経ってしまいました。 遅くてすみません。 何ごともまず好奇心ですね。 これがあれば生涯学習できることまちがいなし。 歴史は個々にとどまらず、いろいろ影響しあっているところに興味がつきませんね。 おおかたの日本人は「アメリカ相手に戦ってとても勝ち目などない」というのが実状でしたし。 ただ「どちらが相手をより憎むか」という争いにおいては、概して日本人はあっさりしすぎているかもしれません。 いい意味でも、悪い意味でも。 当時の列強国たちは、内戦に乗じて領土を掠め取ろうと必死でしたから、日本に対しても虎視眈々狙っていました。 そんな中独立を守り不平等条約を撤廃させた当時の日本人は、政府を始めりっぱでしたね。 僥倖です。 ナポレオン三世の絡みについても勘案できるのはさすがです。 今回のテーマはもともと「なぜリンカーンはアメリカで人気があるか?」を調べているうちに、ふと気になったことがきっかでです。 このハリスってひと、アメリカの立場ではものすごい功労者ですね。 またいろいろ記事にしてみたいと思います。 まだまだネタはあるんですが、なにしろまとめるのが大変で・・。 またそのうちに。 それから条約改正には外交だけでなく軍事力という実力も示す必要があったというのも、歴史が示すとおりですね。 >「世界をよく見るべし」まさにそのとおり!内にこもらずこの目でしっかり見ていきたいと思いました。

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米 南北戦争の南軍司令官の銅像撤去へ デモ受け州知事が表明

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南北戦争 上から時計回りに: , のJohn C. Tidballと野砲、の捕虜、、廃墟と化した 、 時 1861年4月12日-1865年5月9日 布告による 4年3週間と6日 1865年6月22日に最後の砲弾が発射された 場所 , , , 発端 結果 の勝利• の廃止• アメリカ合衆国の領土保全の成功• の滅亡• の開始 衝突した勢力 指揮官 ほか Raphael Semmesほか 戦力 2,200,000人:• 698,000人 ピーク 750,000人—1,000,000人• 360,000人 ピーク 被害者数 110,000人以上 戦死・戦傷死 230,000人以上 事故死・病死 25,000人から30,000人が南軍の捕虜収容所で死去 365,000人以上 総死者 282,000人以上 負傷者 94,000人以上 戦死・戦傷死 26,000人から31,000人が北軍の捕虜収容所で死去 290,000人以上 総死者 137,000人以上 負傷者 50,000人の市民が死亡 総計: 705,000人から900,000人以上が死亡 (CSA)加盟州の変遷(12月 - 7月) 南北戦争(なんぼくせんそう、: American Civil War)は、からにかけて、の北部諸州とを称した南部諸州との間で行われたである。 存続を主張する11州の諸州が合衆国を脱退、を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。 この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。 英語の civil war は「」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので(など、と呼ぶべき物はいくつかある)、アメリカ国内では通常これにをつけ大文字にして The Civil War と表記する。 アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する(を参照)。 詳細は「」を参照 当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。 南部では農業中心の経済が盛んで特にをヨーロッパに輸出していた。 プランテーション経済はにより支えられていた。 そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。 南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部はを望んでいた。 それに比べ、北部では( - )による英国工業製品の途絶でかえって急速なが進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。 また、欧州製のよりも競争力を優位に保つためにが求められていた。 その結果、奴隷制に対する態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。 しかもこの対立は、アメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。 それは財政難に陥ったフランス()からを購入()した事と、から「独立」したとをアメリカ合衆国に加えた事 である。 このことは、それまでで保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れる事を意味した。 この時、を自由州として、、については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。 この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。 ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。 しかも南部のこの人口は、約400万もいた奴隷の人口を含めての数字である。 こうした対立は徐々に先鋭化していき、以降になると、アメリカはの判決、、による襲撃事件といった問題が立て続けに起こり、南北の対立はもはや鎮静化が不可能な地点にまで達していた。 北部では奴隷制に反対する新政党である共和党が急速に支持を拡大し、一方与党である民主党は北部と南部の対立が激化して、党が南北に割れる事態となっていた。 経過 [ ] 開戦 [ ] では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していたのが当選した。 この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった。 同年12月にはが早くも合衆国からの脱退を宣言。 翌2月までに、、、、、も合衆国からの脱退を宣言した。 にはこの7州が参加したを結成、首都をアラバマ州におき、が暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。 にリンカーンが大統領に就任すると、に南軍が合衆国のを砲撃して戦端が開かれた()。 リンカーンは合衆国に残ったすべての州にサムター要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。 しかしこれは連合国への軍事対決を意味し、このときいまだ合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激した。 こうして5月までに、、、も連合国に合流した。 バージニア州はアメリカ有数の有力州であり、このとき連合国の首都もモンゴメリーからバージニア州のへと移された。 ただし奴隷州でも、、、、それにの西部(後にバージニア州から「独立」してとなる)は合衆国に残った。 合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応に、リンカーン大統領は非常に苦慮する事となる。 にはリンカーン大統領がを宣言した。 この封鎖は岸から岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。 経済学者によっては、はの勝利であり、戦争そのものに勝利する主要要因となったとしている。 開戦時の状況 [ ] 南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。 合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。 また、合衆国海軍も将兵7600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。 しかし、それに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。 大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官のうち313名が職を辞して南部連合軍に参加した。 この中には後に南軍の将軍として有名になるや、、それになども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった。 開戦時に北部が優位であった点:• 開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組織を作り上げねばならなかった。 南部と比較して中央集権的な政治体制であったため、合衆国政府の意思決定がスムーズであった。 南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、南部連合の方針を決める際にデイヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。 上記のように北部と南部の間には大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は18歳から35歳)とされる男性の人口も大きな差があり、北部は約400万前後に対して、南部は100万強だった。 南部では後にこの枠が17歳から45歳までに拡大され、最終的に上限は50歳まで引き上げられた。 しかしそれでも兵のなり手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案まで提出された。 北部では上記のように工業面が南部より発達していた。 鉄道の長さは南部の2倍以上あった。 この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵たちに受け渡すことができた。 開戦時に南部が優位であった点:• 人的資源の量では劣っていたが、多くの優秀な指揮官が合衆国軍を去って南部連合に合流した。 そのため北部では将軍に任命するに足る人物が不足することとなった。 奴隷制を維持し「南部の生き方」を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かった。 一方で北部の目標は「合衆国を守る(=南部を合衆国に連れ戻す)」という曖昧なものであり、南部と比較して戦争に対する温度差も大きかった。 「放っておけばそのうち戻ってくる」と思っている者や「離反したいならさせておけば良い」と思っている者が少なからずいたのである。 東部戦線 [ ] 詳細は「」を参照 南北戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては東海岸の東部戦線と、以西の西部戦線とに大別することができる。 そして、南北戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは東部戦線の方だった。 これは、東海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、北部のワシントン・南部のリッチモンドの両首都も東部に位置していたためである。 さらにこの両首都は直線距離でわずか160kmほどしか離れておらず、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。 北部のワシントンなどはを挟んで南部領と隣接している状態であり、自然と両軍ともに相手の首都をめざし進撃することが多かった。 こうして、この両都市間の狭い土地で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。 当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。 しかし、南北の最初の本格的な軍事衝突となった7月の北軍のバージニアへの侵攻は、(第一次マナサスの戦い、7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫し、戦争の長期化は避けられない情勢となった。 3月、率いるがリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。 しかし( - )で、南軍の率いるに大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。 連動して率いる もバージニアへ侵攻するが、( - )でリーに敗北した。 戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、()の結果、後退を強いられた。 戦局が持ち直したのを見た大統領リンカーンは同年9月、を発した(本宣言は翌1月)。 この頃からリンカーンは、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。 1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、( - )の末、再び後退を強いられた。 、ゲティスバーグの戦いにおける戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行ったのが、として知られる有名な演説である。 西部戦線 [ ] 詳細は「」を参照 一進一退の状況が続いた東部戦線とは異なり、西部戦線では終始北軍が優勢に戦いを進めた。 ケンタッキー州が合衆国残留を決めたため、防御に適したを防衛線とすることができず、そのはるか南に戦線を置かざるを得なかった。 西部戦線での最初の戦闘は、1861年8月10日にミズーリ州近くで北軍と南軍側のミズーリ州兵との間で起こったである。 この戦いで南軍は勝利したもののミズーリ州を制圧することはできず、ミズーリ・ケンタッキー両州は動揺はあったものの北部側にとどまり続けることとなった。 西部戦線での大きな転機となったのは、1862年2月に起きたである。 この戦いで北軍のは南軍の大部隊を降伏させ、北軍はをはじめとするテネシー州全域へと侵攻した。 4月ので北軍は再び勝利し、ミシシッピ川の要衝であるを占領した。 一方、合衆国海軍は制海権を握っているからの侵攻を試み、にはにおいて南部最大の都市であるを陥落させた。 こうした北軍の攻勢に対し、南軍はいまだ支配下にあるテネシー州東部のから北方のへの侵攻を試みたが、この侵攻作戦は()と( - )によって失敗した。 グラントは1862年10月にはを率いるようになり、以後この戦線においてさらに重要な役割を果たすようになる。 北軍優勢の中で、ミシシッピ川沿いには南軍側の要塞がいまだ残存しており、南部の東西を結びつける唯一の要衝となっていた。 しかしグラントは( - )で同要塞を攻略し、これによって北部はミシシッピ川の支配権を確保するとともに南軍を完全に東西に分断することに成功した。 さらにグラントはテネシー州東部へと進撃し、( - )の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。 戦中の変化 [ ] この戦争は、北部南部ともに社会に大きな変化をもたらした。 南部は中央集権的な北部に対し州権主義を掲げて蜂起したはずであったが、北部との戦争を遂行する上で集権化は避けられず、連合国政府と一部の州の間で対立が生じた。 また、北部による海上封鎖によって南部経済の主力である綿花の輸出は大打撃を受け、南部経済は混乱していった。 北部においても政府の権限は強大化していき、所得税の導入や不換紙幣の発行などで政府の財政を強化する策がとられた。 また南軍の銃器はフランス製の手工業製品が多く、北軍の銃器は品質管理の行き届いた工場生産のものが多かった。 このことは、部品の互換性が南軍の銃器においては難しかったのに対し、北軍の銃器では部分的に破損した銃器から使える部分を集めて新たに使用可能な銃器が再生できることにつながる。 こうした工業力の根底の違いがしだいに戦況を左右することとなった。 戦争の終結 [ ] 3月、グラントが北軍総司令官に就任した。 南軍の一部隊はこの夏には合衆国首都にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。 またグラントはそれまでの将軍とは違い、会戦で敗北しても引き上げるような事はせず、そのまま敵地にとどまって北バージニア軍と戦い続けた。 さらに、西部においてはグラントから西部の指揮権を引き継いだが1864年5月にを開始し、9月には南部残存地域の中心部に位置する要衝を陥落させた。 アトランタを灰燼に帰したシャーマンは、続いて南部の継戦能力を奪うために大西洋に向かって焦土進撃作戦を開始した。 である。 すでにこの地域に北軍に対抗できる戦力は残っておらず、北軍はあらゆるものを破壊しながら進軍して12月にはジョージア州海岸のに達した。 さらにここでシャーマン軍は北に向きを変え、1865年1月にはを開始してサウスカロライナ州へと進撃。 2月17日には州都を破壊し、同月18日には海港都市を降伏させた。 3月にはノースカロライナ州に入り、州中部のにまで達していた。 3月には北軍の最後の攻勢であるが開始され、ので打撃を受けた南軍はに南部の首都から撤退し、西へと退却した。 しかし追いすがる北軍とにが起き、リーが降伏して南北戦争は事実上終了した。 お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初ののひとつとなった。 最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人 に達した。 両軍合わせて50万人近くの戦死者を出した。 これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。 なお、北軍の公式戦死者数は36万4511人であるが、南軍の公式な戦死者数のデータは存在しない。 しかし、陸軍憲兵司令官の報告書には13万3821人とある。 テキサス州では深刻な不況に陥った。 詳細は「」を参照 南部諸州は北部による軍事占領下におかれ、そのもとで黒人に投票権が与えられた。 しかし以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、激しい揺り戻しが起きた。 1890年代以降、南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策()が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別 厳密には人種隔離 はふたたび強化された。 この人種差別状況が改善されるのは、1950年代のを待たなければならなかった。 「奴隷解放宣言」により、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。 しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、などの活動を生み出す土壌となった。 南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」(The War of Northern Aggression:)であったと主張する者もいる。 南部の黒人差別は、後にが起こる原因となる。 南北戦争の意味 [ ] 南北戦争については次のような対立軸が考えられる。 奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部• 保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部 このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。 この対立軸は、19世紀におけるを中心とした体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。 この戦争の直前にはへしており、欧州から始まったの波は東西からに達していた。 としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。 南部は独立を求めた。 その理由は奴隷制の維持である。 独立しなければ奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。 を掲げ、欧州による経済支配を忌避した合衆国は、強い主権国家を標榜しており、南部諸州の離脱は認めがたかった。 合衆国としての強い基盤を築くためには、独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。 をきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。 結果的に北部が勝利し、合衆国はとして発展を続けることになる。 終戦後にアラスカを買収し、は世界的にも安定した情勢を保つことになり流入の増大も国力を伸張させた。 の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。 また、日本においてはこの戦争で使われた中古小銃類が大量に輸入され、で兵器として使われている。 特にアメリカで発明されたは、南北戦争ではあまり使用されず、戊辰戦争ではじめて本格的に使われたと言われる。 他、アメリカは1858年にを結び、日本の「」を解除し、日本に大きな影響力を確保したかに見えた。 しかし、その後、アメリカは南北戦争および戦争の戦後処理に手を取られたため、戊辰戦争では側にが協力、側にはが協力する図式となり、アメリカは大きく関わらなかった。 南北戦争時の通貨、財政 [ ] 通貨 [ ] 北部と南部は戦費調達のためにを発行した。 戦争中は金との兌換は停止され、北部では ()、南部は ()と呼ばれる紙幣を発行して、互いの勢力下で流通した。 さらに両政府は利子がついた政府紙幣も発行した。 南北戦争以前のアメリカは、個人や団体が自由に銀行を設立できる ()であり、複数の銀行券が乱立状態にあった。 しかし北部がインフレーション対策として1863年に全国通貨法を制定し、国債を担保として国法銀行券の発行が可能となった。 この法律によって北部政府のグリーンバックを国法銀行券に置き換えることが可能となり、通貨の統一が進んだ。 南部は北部の3倍以上の額面の13. 6億ドルを発行して紙幣が歳出累計額の65パーセントに達した。 グレイバックは増刷によってインフレーションが起き、グリーンバック以上に金に対する価値が下落した。 紙幣の価値は戦況の影響を大きく受け、以降はグレイバックの下落は加速した。 税制 [ ] 北部では、戦費の調達を安定化するために内国歳入法を成立して、アメリカで初めてが導入された。 他に物品税(酒、タバコ、ヨット、ビリヤード等)や印紙税も導入した。 北部の税収は1862年の5000万ドルから1865年には5. 6億ドルと10倍以上になったが、戦費はさらに多額であり、財政赤字は25. 9億ドルとなった。 南部では貿易による関税が大きな財源だったが、北部が1861年4月から海上封鎖を始めたために関税収入は急減した。 南部は1861年8月に綿花の輸出税を貸し、財産や贅沢品にも戦時課税をしたが、税収は累計で1. 4億ドルとなり歳出の7パーセント未満となった。 公債 [ ] 北部、南部ともに1861年からも発行した。 北部は20年物の6パーセント利付国債を5000万ドル、南部は20年物で2種類の担保がある8パーセント利付国債を合計1億5千万ドル発行した。 北部の国債には海外からの投資があり、戦争勃発時はドイツが投資した。 イギリスとフランスからの投資は戦争の結果が定まってから始まり、1866年の3. 5億ドルから1869年の10億ドルと急増した。 南部政府の国債は、よりも金利が高くなり、州債はさらによりも金利が高くなって平時と逆転した。 これは、敗戦によって国家や州が解体されるリスクが市よりも高いと人々に予想されたのが原因とされる。 南部は、ヨーロッパでコットン・ボンドと呼ばれる国債も発行してポンドで元利金の支払いを行なった。 その理由は、イギリスを南部側として介入させるためだったとされる。 南北戦争を題材とした作品 [ ] 小説 [ ]• 『』(1868年、)• 『』(1895年、)• 『』(1936年、)• 『』(1936年、) 映画 [ ]• 『』(1915年、監督:)• 『』(1926年、監督:、)• 『』(1939年、監督:)• 『』(1950年、監督:)• 『』(1954年、監督:)• 『』(1962年、監督:)• 『』(1964年、監督:)• 『』(1964年、監督:)• 『』(1966年、監督:)• 『』(1971年、監督:))• 『』(1979年、監督:)• 『』(1989年、監督:)• 『』(1992年、監督:)• 『』(1993年、監督:)• 『』(1999年、監督:)• 『』(1999年、監督:)• 『』(2003年、監督:)• 『』(2003年、監督:)• 『CSA ~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』(原題:THEY WON CSA、2004年、監督:ケヴィン・ウィルモット )• 『』(2006年、監督:、)• 『』(2012年、監督:)• 『』(2016年、監督: テレビドラマ [ ]• 『』(1985年、監督:)• 『ブルー&グレー』 1982年11月 監督:ラリー ホワイト&ルー レイダ)リンカーン大統領役 グレゴリー・ペック テレビアニメ [ ]• 『 』(1987年、監督:) ゲーム [ ]• 『War of rights』 PC steam 2018年12月4日• 『第29号「ゲティスバーグの戦い」』(国際通信社)• 『コマンドマガジン日本版第59号「アンティータム会戦」』(国際通信社)• 『』(、1990年 )• 『The War for the Union』(1992年 Clash Of Arms社)• 『For the People』(1998年 AvalonHill社)• 『』拡張パック第2弾「Brave New World」に、南北戦争シナリオマップが含まれている(2013年7月 Firaxis Games社) 音楽 [ ]• 『』 出典・脚注 [ ] []• The New York Times 1865年5月10日. 2013年12月23日閲覧。 National Park Service. 2016年2月8日閲覧。 : Of which 131,000 were in the Navy and Marines, 140,000 were garrison troops and home defense militia, and 427,000 were in the field army. Long, E. The Civil War Day by Day: An Almanac, 1861—1865. Garden City, NY: Doubleday, 1971. 705. , United States. War Dept 1900. 1889• , p. 849. 2001年6月13日. Louisiana State University. 2007年7月11日時点のよりアーカイブ。 2007年10月14日閲覧。 , Associate Professor J. David Hacker, " estimates, based on Census data, indicate that the death toll was approximately 750,000, and may have been as high as 850,000"• の結果アメリカ合衆国はと呼ばれる広大な領土を収得した。 リンカーンは新たに合衆国に加わる州に奴隷制を広めるのに反対だったため、南部は徐々に自由州が増えて議会でのバランスが崩れる事によって最終的に奴隷制が廃止される事を怖れたのだろう。 合衆国の首都であるはちょうどバージニア州(連合国)とメリーランド州(合衆国)の間にあるため、メリーランド州が南部連合国に寝返った場合は首都が北部州から完全に切り離される危険性があった。 Elekund, R. , Jackson J. , and Thornton M. , "The 'Unintended Consequences' of Confederate Trade Legislation. " Eastern Economic Journal, Spring 2004• 北部に残った士官より南部に去った士官たちの方が、全体的に質が高かったと言われている。 軍の名称としては南軍の北バージニア軍と酷似し混乱の元なので、この戦いの後に廃止されている。 ただし、更に紛らわしいテネシー軍の呼称は、なぜか両軍で使われ続けた。 なお、英語で書いた場合、北部のそれはである。 これはにちなんでおり、テネシー川(流域)軍を意味する。 南部のそれはである。 こちらはからきており、正確にはテネシー州(の)軍となる。 上記のように南部で徴兵適齢期に達していた市民は約100万人だった。 つまり南部は動員可能な兵力をほとんど全て招集したと言う事がわかる。 2014年5月27日閲覧。 Martis, Kenneth C. Digital History Reader, Virginia Tech, Retrieved August 21, 2012. CNN 2018年7月20日. 2018年7月21日閲覧。 北部の通貨制度はの現地調査によって日本に影響を与え、1872年に明治政府はを制定した。 182. 186. ドイツが北部国債に投資したのは、ドイツからの移民が北部を中心としていた点にあるとされる。 , p. 181, 186. , p. 191. 参考文献 [ ] 単行本 [ ]• 『愛国の血糊 Patriotic Gore 』 研究社出版、1998年• 『機関銃の社会史』 平凡社、1993年• 『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』(アメリカ史研究のI) 未來社、1954年• 『アトラス現代史2:アメリカ合衆国』 創元社、1990年• 『自由への扉-南北戦争の前線からの一黒人兵士の書簡集』 丸善• 編『アメリカの戦争』 講談社、1985年• 猿谷要『世界の都市の物語15:アトランタ』 文藝春秋、1996年• 『エブラハム・リンカーン』(全3巻) 新潮社、1972年• 『南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記』(友清理士訳) 学研M文庫• 『国債の歴史 - 金利に凝縮された過去と未来』 東洋経済新報社、2006年。 『戦場の歴史:コンピュータマップによる戦後の研究』 河出書房新社、1986年• 『アメリカの歴史3 〜1837-1865〜』 集英社 論文、雑誌 [ ]• 『ナショナル・ジオグラフィック日本版』2012年5月号(日経ナショナル・ジオグラフィック社)• 『歴史群像 No. 26 南北戦争 THE CIVIL WARの全貌』、1996年、学研 関連項目 [ ]• - 南北戦争で余った武器を日本で売りさばいた。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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南北戦争の原因

アメリカ 南北 戦争

アメリカ独立革命 コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見して以来、西欧諸国はこのアメリカ大陸にどんどん植民地を形成していった。 そして16世紀ごろに入るといろんな国の各地からこの新天地であるアメリカにどんどん入植し、アメリカでの第二の人生を送り始める人がちらほら出てくる。 東海岸の植民地を獲得したイギリスはこれを『 有益なる怠慢』として傍観していた。 しかし、でイギリスが勝利すると、イギリス本国はアメリカの植民地に対して 過酷な重税をかけるようになっていった。 そして1773年にイギリスが茶税をかけ始めるとはついに植民地の人々の怒りは爆発。 を起こし、 アメリカ独立戦争へと突入していった。 そして1776年にアメリカは独立宣言を出し、さらにアメリカ独立戦争は司令官 ジョージ・ワシントンの活躍の甲斐もあってなんとかイギリスに勝利。 アメリカは独立を勝ち取った。 アメリカの領土拡大と南北戦争 アメリカは独立を果たすと、フランスからルイジアナ周辺の地域を買収。 さらに米英戦争以降、ヨーロッパの戦いに一切加担しない という方針を取り始めた。 そしてアメリカはフランス革命後のヨーロッパの混乱を見向きもせずに『明白なる天命』としてインディアンが多く住む西海岸へとどんどん領土を拡大していった。 1845年にはテキサス併合。 1846年にはというメキシコとの戦いに勝利して西海岸を手に入れた。 こうして今のアメリカの大部分の領土を手に入れることになったが、アメリカは一つ大きな問題があった。 南北格差である。 当時アメリカ北部は産業革命の煽りを受けて工業が大きく発達していた。 一方、南部は農業中心の綿花輸出が大きく発達していた。 二つの大きな産業は後にアメリカを二分してしまい、 アメリカ南北戦争が勃発してしまう。 結局、工業が盛んで武器弾薬を多く作ることができる北部が勝つのだが、これによってアメリカは大きな傷を負った。 しかもこの西海岸にはアメリカの国民はもちろん、ヨーロッパの国にいた人たちもアメリカにやってきてしまうほどのものが発掘された。 それは 金であり、一攫千金を夢見て金脈を掘り当てようと人々が殺到する ゴールドラッシュが始まる。 ゴールドラッシュはこれまでインディアンが住んでいた西海岸の開拓を促進させた。 さらに、アメリカは南北戦争終結後、勝利した北部中心に急速な経済成長を遂げた。 この 金ピカ時代とも言われている時代にアメリカの発展の基礎が出来上がり、石油王 ジョン・ロックフェラーや鉄鋼王 アンドリュー・カーネギーなどの資本家が誕生した。 第一次世界大戦は1914年から1919年までヨーロッパで続いた戦争なのだが、この戦争は第二次世界大戦とは違い、植民地の戦いを除けばヨーロッパでしか戦争は起きていなかった。 つまりアメリカにはなんの被害も及んでいなかったのである。 実はここにアメリカが発展した理由があり、イギリス、フランス、ドイツなどは時々戦争が起こり産業や文化などが破壊されられ国が疲弊することがしばしばあるのだか、アメリカの場合はそんな戦争は今のところ南北戦争しか起こっていないため、戦争の被害を受けることがあまりなかった。 さらにアメリカは第一次世界大戦にはヨーロッパの国々に輸出し、莫大な利益を生んだ。 ちなみにこれはヨーロッパから遠い日本も行い、貿易で莫大な利益を生み、日本は大戦景気という好景気に突入していった アメリカは最初はモンロー主義を唱えて大戦に参加していなかったのだが、アメリカの輸送船がドイツの攻撃にあったため連合国側として参加。 アメリカは無事に戦勝国となった。 その、後この頃のアメリカの大統領であった ウィルソンは国際連盟を創設したが、アメリカは上院の反対にあい参加することはなかった。 世界恐慌と第二次世界大戦 アメリカは第一次世界大戦の頃に国内総生産がイギリスを追い抜き、世界第一位の国へと上り詰め、世界大戦が終わった1920年代に入ってからはアメリカ国内の大都市化が進み、ニューヨークにあるウォール街は 摩天楼という超高層ビルが立ち並ぶメガロポリスと称された。 さらにフォード社のT型フォードなどを中心に自動車産業にも追い風が吹いて、世界大戦頃の好景気が続いていき、株価が急上昇していく。 しかし、そんなアメリカにとんでもない大ピンチが訪れることになる。 1929年の 世界恐慌だ。 この大暴落によって銀行の取り付け騒ぎが起こり、銀行は倒産。 さらにこの流れは世界にも飛び火し、世界的に大不景気に陥った。 この世界恐慌後のアメリカを取り仕切り、アメリカを復活させたのが フランクリン・ルーズベルトの である。 ニューディール政策の主な内容は政府による市場の介入、テネシー川流域開発公社 TVA の創設による雇用の拡大、農業調整法 AAA のによる生産量の調整などを打ち出した。 この政策は上手くいった部分もあれば、上手くいかなかった部分もあり、賛否が分かれるが、アメリカは第二次世界大戦による莫大な軍事需要により一気に立ち直ることが出来た。 第二次世界大戦のアメリカの立場は皆さんご存知の通り。 主な敵は枢軸国と呼ばれた 日本とナチス・ドイツとイタリアである。 日本とは太平洋戦争という形の戦争となったが、アメリカは最初の頃は日本に押されつつあったが、に勝利すると日本を圧倒。 最終的にはによって開発された大量殺戮兵器である 原子爆弾を広島と長崎に投下して8月15日に日本が ポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏した。 こうして二度目の大戦もアメリカが戦勝国となった。 冷戦、そして現在 枢軸国を倒し、超大国としての立場を固めたアメリカに待ち受けていたのは 社会主義国との対立であった。 いわゆる 冷戦である。 アメリカはヤルタにおいてイギリス・ソビエト連邦と会談を行ったのだが、これが冷戦の始まりとされている。 冷戦はソビエト連邦とアメリカの対立のことであるが、これは各分野でデッドヒートが繰り広げられた。 その中でも特に熾烈だったのが 核兵器の生産と宇宙開発と代理戦争であった。 核兵器は1945年7月16日にアメリカが初の核実験を行い、世界唯一の核保有国となったのだが、この4年後にソ連が核実験を成功。 さらに原子爆弾以上の破壊性を持つ水素爆弾の開発に成功した。 アメリカは慌てて1952年に水素爆弾を開発。 これから先核開発競争が激化していった。 朝鮮戦争は北朝鮮と韓国との戦争だが、これはアメリカとソ連 と言いたいところだがこの戦いの主な介入国は中国 との代理戦争である。 この戦争は結局決着がつかず現在まで至る。 ベトナム戦争はソ連支持の共産国北ベトナムとアメリカ支持の南ベトナムとの戦争だが、この戦争は北ベトナムが勝利。 アメリカは代理戦争ながらも戦争に敗北してしまった。 しかし、ソ連は軍事予算の増大に耐えきれず財政が破綻。 1989年に冷戦が終結し、その3年後にはソ連自身も崩壊した。 アメリカはソ連という敵がいなくなったことによって世界唯一の超大国として君臨することとなった。 その後アメリカは超大国として 湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争で戦っていくようになる。 まとめ アメリカという国は最初は新世界と呼ばれていた。 しかし、1860年代に西海岸を手に入れ、金ピカ時代を起こすとアメリカは一気に経済発展を成し遂げた。 そして2度の大戦後、アメリカは超大国として君臨し続けている。 関連記事: カテゴリー• 101• 343• 1,407• 149• 805• 587• 168• 100• 176• 141• 134• 106• 558•

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