鳴る 神 の 少し 響 みて 降ら ず とも。 和歌(万葉集より)

主な万葉歌200首

鳴る 神 の 少し 響 みて 降ら ず とも

靴職人を目指す高校生タカオは、雨が降ると学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。 そんなある日、タカオは謎めいた年上の女性ユキノと出会い、2人は雨の日だけの逢瀬を重ねて心を通わせていく。 居場所を見失ってしまったというユキノのために、タカオはもっと歩きたくなるような靴を作ろうとするが……。 「どこかで会ったことが」と言うタカオに対して、ユキノが残した言葉。 それは万葉集の中に書かれた柿本人麻呂の和歌でした。 日本に存在する最古の歌集と言われている「万葉集」。 奈良時代末期に作られたとされています。 100年以上の間に詠まれた和歌を集めたもので、天皇や貴族から名前の分からない人が詠んだ和歌まで4536首が納められていて、全巻20巻にもなります。 万葉集は「雑歌」「相聞歌」「挽歌」の3つのジャンルに分かれています。 ユキノがタカオに残した和歌は「相聞歌」にあたり、男女の恋愛を歌った歌でした。 柿本人麻呂 ユキノがタカオに残した和歌は柿本人麻呂の和歌でした。 「 鳴る 神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 雷が鳴って雲が広がり雨が降ってくれたら帰ろうとしているあなたをきっと引き止められるのにという歌です。 これを詠んだ柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人です。 「歌聖」と呼ばれただけあって、万葉集に中に長歌19首・短歌75首が載っています。 ユキノが残した短歌は万葉集の中の相聞歌に載っている和歌です。 柿本人麻呂は、恋しているけど恋に奥手な女性の心情をこの和歌で表現しています。 この歌には返しがあります。 それがラストの方でタカオがユキノに返した和歌です。 「 鳴る神の 少し響みて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば」 雷が鳴らなくても雨が降らなくても君が引き止めてくれたなら僕はここにいるよという意味になります。 「一緒にいたい」と言えない女性に対して、同じように女性に恋している男性が「ここにいるよ」優しく返した歌でした。 学校での出来事に傷つき心を病んでしまったユキノは、その心を癒してくれるタカオに対して「雨が降れば会えるのに」という思いを伝えたかったのかもしれません。 「古典の教師だと気がつくかなと思って」とユキノは言っていましたが、靴作りに没頭し自分の世界を生きているタカオに安心したのでしょう。 だからで会ったばかりのタカオに対してこの歌をユキノは伝えたのかもしれません。 そしてこの和歌の世界がユキノとタカオの関係の表現していました。 学びのポイント 『言の葉の庭』で描かれた世界は、万葉集の中に書かれた柿本人麻呂の和歌による歌で表現されていました。 男女の恋愛を歌った相聞歌。 柿本人麻呂が詠んだ和歌は、美しく純粋で綺麗な男女の想いでもありました。 その世界の美しさがそのままユキノとタカオの関係に繋がってもいます。 『言の葉の庭』を見ると、そんな美しい和歌の世界を感じることができます。 普段の生活でなかなか触れることのない、平安時代や奈良時代の男女の想いに触れることができ、またその想いはいつの時代も同じなんだと感じることができます。

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気になる歌人/歌

鳴る 神 の 少し 響 みて 降ら ず とも

「日本のアニメ映画ってハズレがないですよね」 そう語るのは私の行きつけの美容師さんだ。 「最近あんまりチェックできてないんですけどね」 彼女はそう付け加え、その場をあとにした。 的な? 会話? をしたことがあるんですけど、たしかに日本のアニメ映画はあまりハズレがありません。 このことは私の過去の私のエントリが反証しています。 えぇ?! いきなり否定しちゃうのかい? 私が思うに、ラノベ原作でテレビアニメ化した作品の劇場版はやや微妙。 新規顧客を取り込むためにやや説明的になるのが原作・テレビからのファンにとって退屈で物足りないと感じる要因になるのではないでしょうか。 そしてもう一つ、いわゆるはキャラが立ちすぎているのではないかということ。 多すぎるキャラクターそれぞれに魅力があるせいで純粋に2時間では面白さを出しきれないのではないでしょうか。 映画化に向いているのは1冊完結で面白いと認められる小説なのだと思います。 だから私、のナウシカもそんなに面白いと思ってないんですよ(へらへら 結局のところ、面白いアニメ映画を作れるのはとだけなんじゃないですかね。 の最新作「言の葉の庭」もなかなかにいい作品でしたね。 圧倒的に画が綺麗なんですよ、新海作品は。 雨のでチョコレートをつまみに朝っぱらからビールを飲むお姉さんに出会った少年が彼女に恋をする、ただそれだけのお話。 主に雨の日に物語が進展するので、水が描かれることが多いんですが、その水面や雨の雫がとても綺麗。 アニメでは不要な部分は描写を省略することができます。 視聴者の意識に残らない部分は描いても描かなくても同じことなんですが、の画はその細かい描写まで視聴者の意識に残すような気がします。 あとものすごくレンズフィルタが効いているというか画面全体が統一感のある光に満ちていてすごく鮮やか。 私は雨が大嫌いなんです。 外に出ると靴下は濡れちゃうし、電車の中ではびちょびちょの傘を押し付けられるし、地下道は公衆トイレみたいなニオイになるし、洗濯物は乾かないし、おふとんはカビ臭く感じるし。 でも、雨をこんなに美しく描かれてしまうと、私もちょっと雨のこと好きになれそうかも、なんて思えるわけないでしょうが! この作品は「"愛"になる前の"孤悲(こい)"」を描いた作品だそうです。 そりゃに似たウィスパーボイスの美人な社会人のお姉さんの弱い部分を垣間見ながら邂逅を繰り返せば片思いもしちゃいますわね。 高校生男子には刺激が強すぎる。 ちなみに私はお姉さんの中の人が花澤さんだと知らない状態で観に行ったんですが、第一声の「どうぞ」のシーンで鳥肌と乳首が立っちゃいましたからね。 ところでタイトルが何故「言の葉の庭」だったのか。 作中でそれが明確にされることはありませんでした。 少し考えてみましょう。 「庭」というのは2人が出会い、時間をともに過ごしたのことでしょう。 高校の校庭という線は圧倒的に薄いと見ます。 ところがこの「庭」での2人の会話が「言の葉」ということになるのかというと、ちょっとしっくりきません。 会話の様子は実はそんなに描かれていないのです。 現に少年は花澤お姉さんのことを何も知らないまま話は進んでいきます。 相手の素性も知らず、自分の正体も明かさないまま、しかし情報はどんどん出て行くし感情をどんどん吐露してしまう。 あれ、これってツイッターみたいじゃないですか? 相手のことを知らないから、自分のことを知られていないからこそ話せることがあるというのは皆さんにも経験があるのではないでしょうか。 あ、ということは交わした言葉の量こそ多くないけれど、立場や肩書きもなく本音を語れる場としての「言の葉の庭」なのでしょうか。 確かに花澤お姉さんが、少年からかけられた言葉を回想するシーンもありましたしね。 他にも何か印象的な「言の葉」があったでしょうか。 初めてお姉さんと少年が出会った際にお姉さんが言い残した「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という短歌があります。 おお、短歌とは実に「言の葉」っぽい。 ここにはこの短歌の意味は書かないことにしますが、花澤お姉さんの側からの「弧悲」の気持ちを表したものでしょう。 花澤お姉さんのボキャブラリーの中には他の短歌もあったでしょうに敢えてのこのチョイスですからね。 ところで、何度か「弧悲」という単語を入力するうちにふと思ったことなんですが、ここでは「弧悲」に「恋」という読み方を充てているわけなんですけど、「弧悲」だったら「オナニー」のほうが適切なルビだと思いませんか? 思いま新海? 「梅雨」 hkapes.

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万葉集その六百九十五 (雷神) : 万葉集遊楽

鳴る 神 の 少し 響 みて 降ら ず とも

「日本のアニメ映画ってハズレがないですよね」 そう語るのは私の行きつけの美容師さんだ。 「最近あんまりチェックできてないんですけどね」 彼女はそう付け加え、その場をあとにした。 的な? 会話? をしたことがあるんですけど、たしかに日本のアニメ映画はあまりハズレがありません。 このことは私の過去の私のエントリが反証しています。 えぇ?! いきなり否定しちゃうのかい? 私が思うに、ラノベ原作でテレビアニメ化した作品の劇場版はやや微妙。 新規顧客を取り込むためにやや説明的になるのが原作・テレビからのファンにとって退屈で物足りないと感じる要因になるのではないでしょうか。 そしてもう一つ、いわゆるはキャラが立ちすぎているのではないかということ。 多すぎるキャラクターそれぞれに魅力があるせいで純粋に2時間では面白さを出しきれないのではないでしょうか。 映画化に向いているのは1冊完結で面白いと認められる小説なのだと思います。 だから私、のナウシカもそんなに面白いと思ってないんですよ(へらへら 結局のところ、面白いアニメ映画を作れるのはとだけなんじゃないですかね。 の最新作「言の葉の庭」もなかなかにいい作品でしたね。 圧倒的に画が綺麗なんですよ、新海作品は。 雨のでチョコレートをつまみに朝っぱらからビールを飲むお姉さんに出会った少年が彼女に恋をする、ただそれだけのお話。 主に雨の日に物語が進展するので、水が描かれることが多いんですが、その水面や雨の雫がとても綺麗。 アニメでは不要な部分は描写を省略することができます。 視聴者の意識に残らない部分は描いても描かなくても同じことなんですが、の画はその細かい描写まで視聴者の意識に残すような気がします。 あとものすごくレンズフィルタが効いているというか画面全体が統一感のある光に満ちていてすごく鮮やか。 私は雨が大嫌いなんです。 外に出ると靴下は濡れちゃうし、電車の中ではびちょびちょの傘を押し付けられるし、地下道は公衆トイレみたいなニオイになるし、洗濯物は乾かないし、おふとんはカビ臭く感じるし。 でも、雨をこんなに美しく描かれてしまうと、私もちょっと雨のこと好きになれそうかも、なんて思えるわけないでしょうが! この作品は「"愛"になる前の"孤悲(こい)"」を描いた作品だそうです。 そりゃに似たウィスパーボイスの美人な社会人のお姉さんの弱い部分を垣間見ながら邂逅を繰り返せば片思いもしちゃいますわね。 高校生男子には刺激が強すぎる。 ちなみに私はお姉さんの中の人が花澤さんだと知らない状態で観に行ったんですが、第一声の「どうぞ」のシーンで鳥肌と乳首が立っちゃいましたからね。 ところでタイトルが何故「言の葉の庭」だったのか。 作中でそれが明確にされることはありませんでした。 少し考えてみましょう。 「庭」というのは2人が出会い、時間をともに過ごしたのことでしょう。 高校の校庭という線は圧倒的に薄いと見ます。 ところがこの「庭」での2人の会話が「言の葉」ということになるのかというと、ちょっとしっくりきません。 会話の様子は実はそんなに描かれていないのです。 現に少年は花澤お姉さんのことを何も知らないまま話は進んでいきます。 相手の素性も知らず、自分の正体も明かさないまま、しかし情報はどんどん出て行くし感情をどんどん吐露してしまう。 あれ、これってツイッターみたいじゃないですか? 相手のことを知らないから、自分のことを知られていないからこそ話せることがあるというのは皆さんにも経験があるのではないでしょうか。 あ、ということは交わした言葉の量こそ多くないけれど、立場や肩書きもなく本音を語れる場としての「言の葉の庭」なのでしょうか。 確かに花澤お姉さんが、少年からかけられた言葉を回想するシーンもありましたしね。 他にも何か印象的な「言の葉」があったでしょうか。 初めてお姉さんと少年が出会った際にお姉さんが言い残した「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という短歌があります。 おお、短歌とは実に「言の葉」っぽい。 ここにはこの短歌の意味は書かないことにしますが、花澤お姉さんの側からの「弧悲」の気持ちを表したものでしょう。 花澤お姉さんのボキャブラリーの中には他の短歌もあったでしょうに敢えてのこのチョイスですからね。 ところで、何度か「弧悲」という単語を入力するうちにふと思ったことなんですが、ここでは「弧悲」に「恋」という読み方を充てているわけなんですけど、「弧悲」だったら「オナニー」のほうが適切なルビだと思いませんか? 思いま新海? 「梅雨」 hkapes.

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