金屏風事件 嘘。 ジャニーズ“平成最大”スキャンダル!中森明菜をハメて葬った?『金屏風事件』

ジャニーズ“平成最大”スキャンダル!中森明菜をハメて葬った?『金屏風事件』(2019年5月2日)|BIGLOBEニュース

金屏風事件 嘘

Sponsored Link 中森明菜が近藤宅で自殺未遂 1987年12月に、お母さんの遺骨が盗まれ、その年の 「日本レコード大賞」を辞退するよう、脅迫文が送りつけられた近藤さんですが、 1989年7月には、近藤さんが帰宅すると、当時交際していた人気アイドル歌手のさんが、自宅の浴室で血を流してへたりこんでいるところを発見。 中森さんは、近藤さんに対し、 ごめんなさい と、泣きじゃくるばかりだったそうですが、 中森さんは、左ひじの内側を真一文字に切っており、切れた血管や神経をつなぐため、6時間もの大手術となったのでした。 公然の事実だった交際 実は、当時、近藤さんと中森明菜さんは、雑誌の表紙、歌番組、バラエティーほか、多数共演され、 特に、1985年の映画 「愛・旅立ち」では、二人のプライベートを想像させるようなラブラブぶりを披露するなど、その仲睦まじい姿から、交際は公然の事実となっている状態で、 「愛・旅立ち」より。 近藤さんと中森明菜さん。 中森明菜さんは、近藤さんから、 結婚に向けて住まいと家具を買おう と言われ、近藤さんに、8000万円を預けられていたのですが、 近藤さんには結婚する気はなく、そのお金を趣味のカーレースにつぎ込んでいたほか、同年2月には、アイドル歌手だったさんと、ニューヨークでの密会をスクープされ、中森さんは、傷つき、自殺未遂を起こしたのでした。 (ちなみに、この8000万円は、いまだ中森さんに返金されておらず、近藤さんが 「マネージャーが勝手にやったこと」とおっしゃっていたほか、近藤さんが買った家具を持ち帰ったとも噂されています。 ) 不自然な「金屏風会見」 そして、同年12月31日、自殺未遂騒動以来、初めて公の場に姿を表した中森さんは、近藤さん同席のもと会見を開かれたのですが、マスコミが会見会場に集まると、金屏風が用意されてあり、しかも近藤さんも同席。 てっきり、お二人の、結婚会見かと思われたのですが・・・ フタを開けると、そうではなく、一連の騒動を謝罪する中森さんの謝罪会見で、 謝罪会見で握手をする近藤さんと中森明菜さん。 終始お二人は、お互いのことを、 「信頼のおける数少ない友人」 と表現し、 記者から交際のことを質問された近藤さんは、 そうしたことは一切ない と断言。 しかも、この会見は、紅白歌合戦の裏番組で生放送という、不自然な会見となったのでした。 メリー喜多川の罠? というのも、この不自然な 「金屏風会見」は、ジャニーズ事務所の副社長、さんが仕組んだと言われているのです。 実は、中森さんが近藤さんの自宅で自殺未遂を起こした時、近藤さんの次に駆けつけたのは、メリー喜多川さんで、 中森さんが入院し、面会謝絶とされると、事件後1ヶ月もの間、当時、中森さんの事務所だった 「研音」は、社長を含め、誰一人、会わせてもらえず、 その間、メリーさんは、中森さんを親身に世話しつつ、いかに中森さんが 「研音」に搾取されているかというニセの情報を吹き込み、中森さんと 「研音」の関係にヒビを入れて、独立をそそのかしたそうで、 (実際には、当時の中森さんの年収は5000万円で、近藤さんの年収1000万円の5倍もあったのですが) これで信頼を得たメリーさんは、近藤さんとの仲をあきらめようとしない中森さんに、 マッチとの婚約会見をするので出てきてほしい と呼び出し(そのための金屏風)、いざ、中森さんが会場に到着すると、 近藤さんは関係なかったといいなさい と、謝罪会見をさせたと言われているのです。 そして、会見をわざわざ紅白の裏番組で生放送にしたのも、中森さんに、 「紅白で復帰」というオファーがあったのを、知ってのことだったというのです。 ちなみに、中森さんはメリーさんの話を信じ、その後、 「研音」を辞めると、近藤さんの担当だった小杉理宇造さんと、個人事務所 「コレクション」を設立しているのですが、 謝罪会見の後、本格的な活動をしないうちに小杉さんは降ろされ、ひとりになった中森さんはしばらく路頭に迷われています。

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中森明菜の金屏風事件はデマが通説になっている?

金屏風事件 嘘

そもそも金屏風は、披露宴の高砂の背景や芸能人の婚約・結婚記者会見、受賞式などの際に立てられ、ひな人形であるとか基本的におめでたい席に立てるものとされている。 まず私の知る限りおめでたい席ではない会見で金屏風が用いられた例を3つ挙げます。 ・ピンクレディーの解散会見(1980年) 人気絶頂から一転して低迷し解散に至ったと思われているが実際は少し異なる。 1978年の紅白歌合戦を辞退し日テレのチャリティー番組『輝け!! 特別生放送 ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!? ~みんなでしあわせになろうね~』に出演。 その当日までは何事も無く良かったが年が明けた1979年からマスコミが一転して紅白を辞退したピンクレディーを一斉にバッシングを始める。 1979年は一時の勢いこそ無くなっていたけど人気低迷とまではいっていなかった。 その後のアメリカ進出も事実とは異なる大失敗とマスコミが報じたことでピンクレディーは汚名を被った状態で低迷し解散に至る。 この解散会見での金屏風は、そうやって陥れられた天敵マスコミへの最後の強がり(一時代を築いたピンクレディーのプライド)であったと捉えられる。 ・勝新太郎のがん公表記者会見(1996年) がん公表で湿っぽくなる会見すらも昭和の大スター勝新太郎を演じきった演出のひとつに金屏風を使っている。 ・春風亭小朝・泰葉離婚会見(2007年) これは落語家初代林家三平の娘、泰葉流の皮肉を込めた演出として金屏風が用いられている。 つまり、おめでたい席以外で金屏風を使う場合は何かしらの意図を演出する為に利用されてきたことがお分かりいただけるだろう。 12月31日の年の瀬にわざわざ記者を集めてやった会見のポイントは2つ。 ・中森明菜が騒動の謝罪(近藤真彦への謝罪) ・近藤真彦が来年の抱負を語る ツッコミどころ満載なのだけど、あえて言うなら中森明菜が単独での金屏風復帰会見ならまだわかる。 心配したファンの前に晴れやかな姿を見せたいという意味で金屏風を使ったのならね。 でも、会見の中身は謝罪会見なんだよ。 例えばさ不祥事を起こした芸能人が金屏風をバックに謝罪会見したらどう思うよ。 頭おかしいのかとしか思えないだろう。 しかも、自殺未遂をした部屋の主が横に付いてきて来年の抱負を語るという謎展開。 こんなヘンテコな会見は後にも先にも無くて前代未聞だということ。 最初に書いたように男女が金屏風の前で会見を行うと言ったら基本的におめでたい報告なんだよ。 仮に誤ってホテルが準備したにしても会見が始まる前に大急ぎで撤収させるし、こんな段取りをした会見責任者はクビが飛ぶよ。 何も解決されない憶測が飛ぶだけの酷いお粗末な会見だったから多くの人の記憶の中で遺恨に残っているというだけの話。 『事件』と言えるのは、近藤真彦の母親遺骨盗難事件の方である。 こっちはガチの事件で未解決のまま時効を迎えており、こっちはこっちでミステリーとなっている。 テレビ側 ホテル側?会場側? の問題です。 金屏風は、何かの会見の時には昔から使われていました。 明菜さんの時も、復帰会見という事で安易に用意されました。 とてもインパクトの強い会見になったため、その後金屏風は使われなくなりました…。 それが余計に明菜さんの時だけ出されたみたいな印象になり、いろんな憶測に繋がってしまっています…。 金屏風は昔から記者会見などに使われているという事を知って下さい。 そして、いじわるなイジメの様に、何十年も経ってもワザとほじくり返している人もいます。 気を付けてくださいね。 ファンに"元気になりました!"をアピールして、「これから頑張ります!」で終わる為だったと思います。 そういう復帰会見でもマッチや関係者やファンへの言葉はあったでしょう。 そしたら金屏風も違和感ないでしょう。 会見前にマッチの所に行って挨拶して、そして向かったのはマスコミにも写真撮られてます。 そこで、マッチが自分からか上から言われてか分かりませんが、責任感を持って、自分が先に喋ってお膳立てをした訳です。 「頑張っていきます」アピールが、謝罪相手が目の前にいますから、謝罪が多くなってしまったのは結果的な事です。 結果的にああなっただけの話です。

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ジャニーズ“平成最大”スキャンダル!中森明菜をハメて葬った?『金屏風事件』

金屏風事件 嘘

中森明菜さんは16歳の時に日本テレビのオーディション番組「スター誕生」に参加し見事合格。 ワーナーパイオニアとレコード契約を締結して1982年にシングル「スローモーション」でデビューしました。 2枚目のシングル「少女A」が大ヒットし1980年代のツートップアイドルとして松田聖子さんと共に時代を築いたのです。 3枚目以降も出すシングルが全てヒットするほど名曲を世に出し続けてきた中森明菜さん。 1985年に発売した「ミ・アモーレ」そして1986年に発売した「DESIRE」では2年連続で日本レコード大賞を受賞する快挙を成し遂げました。 東京都大田区清瀬市出身の中森明菜さんは6人兄弟の5番目・三女としてこの世に誕生しました。 ツッパリのイメージが強い中森明菜さんですが、兄弟姉妹の中で実際にツッパッていたのは中森明菜さんの兄と姉だけ。 中森明菜さんは小さい頃からとてもおとなしいお子さんだったそうです。 美空ひばりさんに憧れ歌手を目指したけれどもなれなかったお母様の遺志を継ぎ中森明菜さんは「お母さんのために歌手になりたい」その思いでオーディションに参加していました。 歌手になったのはお母さんの夢…彼女自身の本当の夢は何だったのか?実はそれは「結婚してお嫁さんになること」だったのです。 歌手としていくら中森明菜さんがトップスターになったとしても、それは彼女のゴールではありませんでした。

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