しょう いん じ。 青蓮院

正倉院

しょう いん じ

概要 [ ] 青蓮院は、梶井(現在の)、と共に、天台宗の三寺院とされる(天台三門跡)。 「門跡寺院」とはやの子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身での称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。 江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。 の1つ「青不動」のある寺としても知られる。 歴史 [ ] 梶井、妙法院などとともに、青蓮院も上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっている。 青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは末期の大僧正の時である。 6年(1150年)にの皇后は青蓮院を祈願所とした頃から寺格が上がり始め、鳥羽上皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺してより後は、皇家や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。 山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けてに高台の現在地へ移った。 ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と呼ばれている。 行玄の没後は行玄の庇護者であったの皇子であるが第二世門主となったが、その後継者についてはが弟である慈鎮和尚に譲らせようと覚快に圧力をかけ、他の弟子への継承への継承を考えていた覚快がこれに反発し、更に行玄から覚快への継承に不満を抱いていた覚快の兄弟子であるも自身への継承を求めるなど紛糾したが、覚快の没後に慈円への継承が決まった。 その後、までには梶井門跡(後の)と並ぶ門跡としての地位が確立されたとみられ 、更に2年(1248年)閏12月29日に出されたのに初めて「青蓮院門跡」という呼称が登場することになる。 その一方で、慈円の後継者を巡る争いをきっかけに青蓮院内に2つの派閥が形成され、の仲裁で第十六世門主であるが第十七世門主のに門跡の地位を譲るまで100年以上も門主の地位を巡る内紛が続いている。 歴代住職のうち、第三世門主の慈鎮和尚は歴史書『』の著者として著名である。 慈円はの子で、歌人としても知られ、天台座主を4度にわたって務めている。 また第十七世門主のはの第六皇子で、名筆家として知られる。 尊円法親王の書風は「」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「」の源流である。 には後に第6代となる義円が門主を務めた。 また衰微期のが末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くしたもここでを受けている。 の8年(1788年)、でが焼失した折には、青蓮院がの仮仙洞御所となった。 このため 青蓮院旧仮御所として国のに指定されている。 近代に入り、明治26年(1893年)の火災で大部分の建物が失われた。 平成4年(1993年)4月25日には過激派()の放火により好文亭が焼失したが、2年後に再建されている。 戦後、の弟にあたるが門主となったが、復興に努力した執事長との争いがこじれ、ストライキ騒ぎが起きたり、が門前に赤旗を並べたこともあった。 多くの文化財が青蓮院の所有を離れた経緯が不明瞭であるとして国会で追及されたこともある。 晩年の慈洽は世襲が想定されていない青蓮院門主の地位を息子の慈晃に譲ろうとして、これを阻止しようとする教団と軋轢を生じた。 最終的には要求が容れられなければ青蓮院を天台宗から脱退させるという慈洽の強硬な態度に天台宗側が屈服し、慈晃の門主世襲が実現することになった。 慈晃の跡は現在執事長を務めている子息のへの継承が予定されている。 境内・伽藍 [ ] 華頂殿の襖(による) 本堂、宸殿、小御所、華頂殿(書院)、叢華殿、好文亭(茶室)などがあるが、いずれも古いものではない。 各建物(好文亭除く)は渡り廊下でつながれている。 庭園は室町時代の作と伝える築山泉水庭、江戸時代の作と伝える霧島の庭などがある。 境内西側には京都市のクスノキの巨木が5本ある。 青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。 本堂 - 熾盛光堂(しじょうこうどう)。 境内奥(南側)に西面して建つ方三間、宝形造の小堂。 堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来のを安置するが、通常は公開していない(天台宗開宗1,200年を記念し、2005年9月28日より同年12月28日に公開された)。 熾盛光如来とはの一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。 本堂の東裏には国宝の青不動画像の複製が安置されていたが、2016年現在は将軍塚の青龍殿で御前立として祀られている。 小御所 - 本堂の北側に建つ桟瓦葺きの建物。 天皇の仮御所として使用された建物を明治26年(1893年)の焼失後に復興したものである。 小御所東側の池を中心とした庭園は室町時代、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作と伝える。 小御所近くにある「一文字手水鉢」はの奉納と伝えている。 宸殿 - 小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。 東福門院の御所が寄進されたもの。 入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。 「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。 障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。 なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。 宸殿西方の四脚門(御幸門)は、の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災をまぬがれている。 好文亭 - 青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した茶室。 1993年に中核派による放火で焼失し、2年後に復元されたものである。 主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。 植髪堂 - 境内北方、拝観入口の左方に離れて建つ。 3代門主慈円について得度したの剃髪が奉られているといわれる。 1759年に建立され、1880年現在地に移転。 ちなみに、境内の楠の巨木は親鸞の手植と伝えられている。 長屋門 - 拝観入口の手前右手に建つ門で、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。 将軍塚大日堂-寺の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。 がにあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めたがあり、京都市街の見晴らしがよい。 回遊式庭園に枯山水庭園を取り込んだ庭園には、桜約200本や紅葉約220本などが植林され、春・秋には夜間拝観が実施される。 2012年より、北野天満宮境内にあった1913年建立の武道場・の建物を移築した大護摩堂「青龍殿」建立工事が行われ、2014年10月4日に天台座主を大導師として青龍殿落慶青不動明王開眼法要が行われた。 これに併せて10月8日~12月23日まで、国宝青不動明王のご開帳と、青龍殿の一般公開が行われた。 これまでも将軍塚の横に展望台があったが青龍殿の北にを一望できる舞台も併せて設置された。 不動明王ニ童子像(青不動) 国宝 [ ]• 不動明王ニ童子像-「青不動」と通称される平安時代後期の仏画。 に寄託されていたが、2014年10月に飛地境内の将軍塚に大護摩堂の「青龍殿」が完成し、同所にて10月から12月まで開帳された。 (三井寺)の、のとともに三不動と言われている。 現在、青龍殿に祀られているものは複製品であり、国宝本体は青龍殿に隣接する奥殿に保管されている。 重要文化財 [ ]• 木造立像• 金地着色浜松図17面(うち1面盗難)• 宸翰消息(九月十日)• 紺紙金泥大灌頂光明真言(光格天皇)• 解深密経 巻第四(げじんみっきょう)(金砂子色麻紙)• 122巻(附:同写本149冊)• 上中下 3帖 承安元年僧弘恵書写奥書• 観音応験記• 八家秘録及び諸真言目録 10帖 寛治五年僧勝豪書写校合奥書• 一期思惟記(自筆本)• 青蓮院吉水蔵聖教類(しょうぎょうるい) 1,622種• 自筆書状(十一月二十四日)• 附嘱状1通・皇慶起請1通 永承三年• 円仁入唐請来書目録 嘉承三年僧院昭書写奥書• 慈円自筆聖霊院願文案 出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 青蓮院旧蔵の重要文化財 [ ] 以下は諸般の事情により、後に青蓮院の所有を離れた重要文化財である。 絹本着色普賢延命像(奈良国立博物館蔵)• 光厳院宸翰消息(蔵)• 正親町天皇宸翰消息(広島・蔵)• 陽光院筆消息(広島・耕三寺蔵)• 後陽成天皇宸翰消息(閏七月十七日)(個人蔵)• 慈円僧正消息(残欠7通)(保管)• 大手鑑百八十六葉(個人蔵)• 伏見天皇宸翰歌集断簡(広沢切)(所在不明)• 伏見天皇宸翰宝篋印陀羅尼経(大阪・蔵)• 後崇光院筆新続古今集(個人蔵)• 後桜町天皇宸翰心経百九巻(広島・法人蔵)• 後桜町天皇宸翰六字名号(広島・法人蔵)• 集解 巻七十一残巻(所在不明)• 化城喩品(大阪・和泉市久保惣記念美術館蔵)• 箔散料紙法華経 方便品(大阪・和泉市久保惣記念美術館蔵)• 別異弘願性戒鈔(広島・耕三寺蔵) 主な門主 [ ]• (1097-1155)(の子):初代門主• (1134-1181)(の第7皇子):2代門主• (1155-1225)(の子):3代門主• (1185-1243)(の子):4代門主• (1220-1255)(の子):5代門主• (1204-1250)(の第8皇子):6代門主(宝治2年(1248)-)• (1224-1256)(の子):7代門主• (1217-1290)(の第6皇子):8代門主• (の子):9代門主• (最尋)(1237-1304)(の子):10代門主(文永2年(1265)-)• (1238-1300)(の子):11代門主• (1254-1295)(の皇子):12代門主• (の子):14代門主• (1268-1318)(の第7皇子):15代門主• (1282-1341)(亀山天皇の皇子):16代門主• (1298-1356)(の第6皇子):17代門主• 尊実法親王(1314-? )(の第4皇子)• 祐助法親王(1302 - 1359)(の第3皇子)• (1332-1403)(の第11皇子)• (の四男)• (1381-? )(の庶長子)• 道円入道親王(1364-1385)(の第8皇子)• 義円(のちの)(1394-1441):門主(応永15年(1408)-応永35年(1428))• (1421-1437)(の子)• (1432-1514)(の子)• (1472-1504)(の第2皇子)• (1504-1550)(の皇子)• (1552-1597)(の第6王子)• (1591-1653)(の王子):門主(慶長3(1598)-)• (1647-1676)(の第13皇子)• (1651-1693)(後水尾天皇の皇子)• (1715-1739)(の第15皇子)• (1697-1747)(の第2王子)• (1744-1824)(の第5王子)• 尊融親王()(1824-1891):門主(嘉永5年 1852 -)• (1910-2014)(の王子):門主(昭和18年(1943)-平成16年(2004))• (1942-) 映画と青蓮院 [ ] 大正から昭和にかけて、の撮影場所として門前の構えが重宝された。 見識も高い寺で、映画人が心やすく出入りすることはできなかったが、門前の撮影だけは許された。 この時代の撮影謝礼金は映画館の招待券十枚程度で、当時で五円ほど、これは上等旅館の一泊料金に相当し、現在なら二万円弱というところだった。 長い石段は馬の出入りが自由にできず、考証的に不合格と言ってよかったが、この門前の厳めしさと気品が雰囲気に合い、各撮影所が「町奉行所」とか「薩摩屋敷」として多用した。 監督は1941年(昭和16年)に主演の映画『江戸最後の日』で、薩摩屋敷としてこの門前を使った。 ところがこの門前は北向きであるので冬季は門前に日が当たらず、夏季は楠が茂って門の半分を隠し太陽を遮ってしまい、しかも仰角度から狙えず、キャメラマン泣かせの場所だった。 1948年(昭和23年)に監督が青蓮院に立て籠り、『蜂の巣の子たち』という映画の構想を練った。 戦災孤児や不良児たちを十数人この寺に収容し、その甦生を指導しながら彼らの日常生活や生態を風に写し撮ったのである。 門前のほかは映画撮影のための入門を許さなかった青蓮院だが、当時この寺は経済的に困窮していたために相互扶助が生じたようで、実現しなかったが一時は「清水監督をこの寺の住職に」との話もあったという。 幕末の領地 [ ] の『データベース』より算出した幕末期の青蓮院領は以下の通り。 (11村・1,157石余)• のうち - 6村• 岡崎村のうち - 11石余• 田中村のうち - 9斗余• 浄土寺村のうち - 2石余• 鹿ヶ谷村のうち - 13石余• 粟田口村のうち - 214石余• 千本廻りのうち - 65石余• 山城国のうち - 2村• 壬生村のうち - 402石余• 中堂寺村のうち - 5石余• 山城国のうち - 1村• 上植野村のうち - 122石5斗• 山城国のうち - 1村• 東九条村のうち - 19石余• のうち - 1村• 菅田村のうち - 300石 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 日本三大不動とされるものは青蓮院の 青不動、の 赤不動、の 黄不動の他にの黒皮不動明王(黒不動)、の目黒不動など諸説ある。 ただし、慈円が著した『』には行玄を「青蓮院座主」と呼んでいる箇所があり、慈円の時代には行玄の後継者を「青蓮院」と呼んでいた可能性がある。 稲葉伸道の整理に従えば、慈円は(九条兼実の子)と(の子)に青蓮院門主を譲った事実が確認できるものの、共に慈円との不仲から追放の上に門主のが行われた(門主を譲った事実が取消されたために歴代に含まれない)。 その後、後鳥羽上皇の皇子であるを後継者にしたものの、承久の乱によって道覚が退去を余儀なくされたために、改めて(九条兼実の子、良尋の弟)を後継者として門主を譲った(第四世)。 慈円の没後、道覚は次期門主としての地位を取り消された訳ではないと後嵯峨上皇に訴えて宝治2年(1249年)の院宣によってその事実を認定されて良快の後継者である(の子、第五世)に代わって道覚が門主となる(第六世)。 出典 [ ]• , pp. 278-280・303. 衣川仁 「延暦寺三門跡の歴史的機能」、永村眞編 『中世の門跡と公武権力』 戎光祥出版、2017年。 , pp. 277-278. , pp. 280-291. (第51回国会 文教委員会 昭和41年(1966年)6月1日)• 平成17年6月9日文部科学省告示第87号• 文化財保護委員会『指定文化財総合目録 美術工芸品篇』(昭和33年版)において青蓮院の所有とされている物件を挙げた。 では所有者不明の部に収録されている。 『日本映画の若き日々』毎日新聞社、1978年。 参考文献 [ ]• 稲葉伸道 「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎編 『延暦寺と中世社会』 法蔵館、2004年。 飛田範夫「青蓮院の庭園と建築の変遷について」『造園雑誌』第53巻第5号、日本造園学会、1989年、 43-48頁、 :。 関連項目 [ ]• - 前門主• - 撮影スポットの1つとして収録されており、ゲーム内で所有する車を配置して撮影することができる。 、 拝観案内 [ ]• 青蓮院 9:00 - 17:00 拝観料 大人500円 ライトアップ拝観料金 大人800円• 将軍塚青龍殿 9:00 - 21:30 拝観料 大人500円 アクセス [ ]• 下車徒歩6分• 5系統・46系統・急行100系統(南行のみ)、神宮道バス停下車徒歩3分。 京都市営バス「京都岡崎・都心循環バス(京都岡崎ループ)」(2015年9月19日から運転)青蓮院前バス停下車すぐ• 京都市営バス・京阪バス、祇園バス停下車。 とを通って徒歩15分。 東山山頂の将軍塚大日堂• 京阪バス ・から将軍塚青龍殿へのバスが運行されている。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 オープンストリートマップに があります。

次の

正倉院ってなんだろう? | 正倉院展(しょうそういんてん)キッズサイト

しょう いん じ

歴史 [ ] 当寺は、2年()、(慈覚大師)によって開かれたと伝えられる。 円仁はでなどに独特の旋律を付けて唱えるを学んできており、この地にそれを伝えた。 しかし、その後寺は荒廃してしまう。 2年()、によって復興され、勝林院が建立された。 その際、寂源はここを声明研鑽の地としたので声明も復興された。 聖応太師が2年()にを再興すると、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て「魚山大原寺」と総称されるようになった。 以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれ、やなどの声明の原型でもある。 2年()にはとなどによる宗論、いわゆる「大原問答」がこの寺で行われた。 初期、の時代にの願によりお江の方()の菩提のために本堂が再建された。 21年()正月の火災により本堂は焼失するが、7年()に再建される。 江戸時代には4坊(理覚坊・実光坊・法泉坊・普暁坊)があったが、現在は・の2院が残っている。 大原問答 [ ]• 4年()、寂源がの僧であるとを招請して、勝林院の本堂でを開いた。 大原入道少将と呼ばれた寂源の名前にちなんで、これを「大原談義」と称した。 この時、本尊が自身の意を放光によって表したので、集まった聴衆が大いに驚いたという。 それより、本尊は「証拠の阿弥陀」と称されるようになった。 2年()、の招請により、勝林院でが義について、、、、らと一昼夜にわたっての問答が行われた。 これを「大原問答」という。 顕真らが法然に12の難問を投げかけていったものであるが、法然はそれらに対してによってへ往生できることをはっきりと示した。 その時に、本尊のが光を放って法然の主張が正しいことを証明してみせたという。 そのため本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。 なかでも重源は翌日には自らを「」と号して法然に師事している。 境内 [ ]• 観音堂• 山王社• 法然上人腰掛石 - 境内入り口の前にある。 - 塔頭。 - 塔頭。 文化財 [ ] 重要文化財 [ ]• 京都市指定有形文化財 [ ]• 鐘楼 その他 [ ]• 本尊阿弥陀如来坐像 - 木造。 創建当初の本尊は、仏師のの作と伝わるが、2年()8月の騒擾で出火し、本尊にも火が及んだ。 その後、2年ほどで補修が完了した。 現在の本尊の頭部は、この時のものであることが、創建1000年を期して実施された調査で判明している。 また、13年()7月にも、水害によって本堂と本尊が被害を受けて修理したことが、像内納入の『証拠阿弥陀如来腹内記』によって明らかになった。 その後、21年()正月にも、失火により焼損し、翌年9月に開眼供養されたのが、現在の本尊であることも判っている。 アクセス [ ]• 停大原から徒歩12分。 脚注 [ ]• 勝林院パンフレットの表記から• 「一ニ大原寺ト云フ」。 『古事類苑』宗教部, 洋館, p. 730. また同書は「山州名跡志、五、愛宕郡」から「魚山勝林寺一名大原寺」を引く• 『京都市の地名』日本歴史地名体系第二十七巻. 平凡社. 1979. 『京都市の地名』日本歴史地名体系第二十七巻. 平凡社. 1979. 荻満津男「寂源と勝林院」義江彰夫『古代中世の史料と文学』吉川広文館. 2005. 『京都を学ぶ(洛北編)』京都学研究会編、ナカニシヤ出版、2016年• 「災害の度 本尊の「顔」守った? 京都・勝林院 頭は室町期、胴は江戸期と判明」(『日本経済新聞』2013年8月29日付 朝刊) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• この項目は、に関連した です。

次の

消防隊員(しょうぼうたいいん)の仕事

しょう いん じ

ねらい 消防隊員の働き方、訓練の様子、道具の点検の様子をとおして、日頃からの努力や備えが火事に立ち向かう力になっていることを知る。 内容 火事のげん場で火を消し、人々を助ける、消防署(しょうぼうしょ)の「消防隊員(しょうぼうたいいん)」。 本郷(ほんごう)消防署では24時間、いつ火事が起きてもかけつけられるように、3つのグループに分かれてはたらいています。 消防署の人たちは、いろいろなくん練をしています。 すばやく出動するために、早く着がえる「着装訓練(ちゃくそうくんれん)」。 消防車の中には、くつとズボンが、いつも一しょにおいてあり、一度にはくことができます。 さらに声を出して確認(かくにん)し、決められた服そうが、まちがいなくできるようにしています。 しっかり着て、人を助けられるようにしています。 また火事のげん場で使うはしごがちゃんとのびるかどうか、登ったときに、こわれないかなど、毎日確認するようにしています。 消防隊員の人たちは、日ごろからくん練や努力(どりょく)を重ねることで、火事に立ち向かっています。

次の