いとをかし 漢字。 『源氏物語』と『枕草子』の「あはれ」と「をかし」を数えてみました

『いとおかし』の意味って5つもあるのですか?

いとをかし 漢字

豊かな「ことば」とは何か? 「自分の言いたいことがはっきり言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ 、そして、 聞き手も正しくそれを理解できる、そのような豊かな国語を創るため(後略)」( 1961 年「豊かな国語のために」より) 大学の今期の授業がすべて「オンライン授業」になって、いつもの数倍ほど手間ひまがかかり忙しくてブログもしばらくお休みしていたのですが、今回ばかりは「言語」に多少ともかかわる者として黙ってるわけにはいかない、と思い書くことにしました。 それは、加藤の 検査をめぐる先日の発言です。 「 37. テレビ報道でこれを聞いた私のとっさの突っこみは、 「おいおい、おっさん、何言うてんねん。 それはないやろ!」でした。 一国の大臣の発言と、町の民衆の一人である私の感想と、この二つの「言葉の落差」にこそ、実はの「政治」と「生活」をめぐるとても大きくて重要な問題がはらまれている、と私は考えています。 加藤の「ことば」の誤解 根本的な問題は何か、というと、現代の日本の政治家の使う「言葉」は、大切なところがすべて「漢字語」であり、政治家の発言の多くは「漢字語を中心にして書かれた文を読んでいる」ということです。 これこそが、「日本の政治家の言葉」がわかりにくい理由であり、「日本の政治家の言葉」を弱くしている理由なのです。 上で取り上げた加藤の発言の「政治的な側面」はマスコミに出る政治評論家にまかせておいて、これを「言葉」の面から考えてみることの方が、より大切です。 「目安・相談・基準・誤解」など、漢字語で書くと、いかにも 賢そうに偉そうに見えますし聞こえますが、それは決して本当に賢いことや偉いことを意味しません。 そもそも、漢字語はとても不正確な「言葉」なのです。 その意味するところが、とてもあいまいな「言葉」なのです。 そんな不正確な漢字語の意味を明瞭にしよう、と努力したり、漢字語を使ってでも、ぼんやりとした心の内や頭の中をはっきりとさせ、相手にしっかりと伝えよう、とするのが「文字を使う者」の誠実な営みのはずなのですが。 なかには、 その不正確さを利用して、人をだましたり、煙に巻こうという人間が現われるのです。 加藤は、残念ながらその典型だと言わざるを得ません。 「書き言葉」に通じていて、「書き言葉」の修練を重ねることによって社会的高位置を獲得した「官僚」や「官僚上がりの政治家」は、「書き言葉」の特性をよく知っています。 加藤も、もともとは大蔵省の官僚です。 きっと、 自分の優秀な「書き言葉・言語力」をもってしたら、一般民衆など簡単に言いくるめられる、と思ったのでしょう。 あえて意味の不正確な「目安・相談・基準」という漢字語を連ねておいて、「だから、みなさんが誤解したんだ」と言い逃れることができる、と考えたのでしょう。 そして、それはある程度は通用しました。 当日の記者会見に立ち会っていた、新聞やテレビなどの大手マスコミの記者たちは、目の前で発言された「言葉」に対して、 突っこみを入れることをしなかった、からです。 それは、彼らもまた、加藤と同じく「漢字語の書き言葉」によって社会的高位置を獲得してきた人間だからだと僕は思います。 それに対して、 町の一般民衆は、身近な「生活ことば」の地平から、 「おいおい、おっさん、それはないやろ。 わしら、みな、 37. 5 度で 4 日間、で動いてきたで。 医療の現場の人間もそうやで」 と言ったのです。 かつては一般民衆は社会に対して発言する機会を持たない「情報下層者」だったのですが、現在はインターネット、 という発信機会を持っています。 また、「書き言葉」によって立身出世をしたわけではない「テレビタレント」たちが、一般民衆の「生活ことば」の反応をすくい上げたのです。 「漢字語の書き言葉」と「身近な生活ことば」と。 人間の使う「言語」として、どちらの「ことば」が強いか! 明らかです。 読書の中から得た「漢字語の書き言葉」より、暮らしの中で得た「生活ことば」の方が強い、のです。 ここに、 「言語の本質」があります。 の政治家の「ことば」 さて、「漢字語で語る」のは加藤だけではありません。 「コロナ問題担当大臣」となった西村経済再生相もまた、「 34 県の多くは 解除が視野に入ってくる」などと言います。 どんな日本語なんでしょう。 ふつうの日本語で言えば、「縛りを解くことを考えてもよい」ですよね。 なぜ、わざわざわかりにくい「漢字語」を連ねるのでしょう。 その方が、何だか偉そうに聞こえるし、賢そうに聞こえるからですよね。 西村経済再生相もまた、の官僚から政治家になった人です。 また、の政治家たちが、 「 スピード感の 欠如」などと言います。 どうして、「おそい」や「おそすぎる」ではいけないのでしょうか。 「すばやく」や「もっと早く」ではいけないのでしょうか。 その方が、だれにでもわかる日本語です。 政治家の使うような日本語をこども達に教えてはいけません。 こういう「言葉」が、日本の政治を私たちの「暮らし」から遠ざけてきたのです。 民衆がふだんの「暮らし」の中では使わないような「賢こそうな言葉」で政治を語ろう、とする意識とは、それによって自分を言語的な優位者に持ちあげようとする偽エリートの考えです。 安倍首相にしても同様です。 「 9 月入学問題に関しては、 前広に検討したい」 この数十年間で私は初めて「まえびろ」という日本語を聞きました。 無理やり漢字語風にしたら、何だかもっともらしく聞こえるだろう、と思っている官僚が書いた用語を読んでいるのが明らかな答弁です。 他にも、ひんぱんに出てくる「ことば」に、「 認識しているところでございます」や「 承知しているところでございます」などがあります。 誰も、家庭の中や、親しい友達との会話の中で、こんな「ことば」は絶対に使いません。 ここにも「言語の本質」の捕らえ間違い、が表れています。 「読む」と「しゃべる」は違うのです! 「しゃべる」と「読む」の違い ヒトは、身体や頭の中にある「ことば」しか「しゃべる」ことはできません。 しかし、身体や頭の中にない「言葉」でも「読む」ことはできるのです。 「文字」は、ヒトの身体の外にあるもの、だからです。 今回の「コロナ事態」で、世界の政治家と日本の政治家が大きく違うところがはっきりと見えました。 世界各国の政治家は、「しゃべっている」のです。 日本の政治家は「読んでいる」のです。 だから、あらかじめ質問書として提出された質問に対して、あらかじめ用意された「文章」だけしか答弁できないのです。 野党議員のほうも、そのほとんどは質問書を読んでいます。 だから、議員のように、 「質問文章」から外れて「しゃべってしまった」時には、「大学生、このまま授業料が払えなくてやめたら高卒ですよ」などという偽エリートの本心が表れてしまいます。 政治家のこのような「言葉」は弱くて、聞いている民衆の身体と心には届かないのです。 吉村・が、一般民衆から高い評価を受けている最大の理由は、彼が「読んでいる」のではなく、「しゃべっている」から、だと私は考えています。 それは「政策の内容」とは別の次元の「ことば」の次元の話、です。 安倍首相や、西村大臣や臣と比べてみたら一目瞭然です。 吉村知事は、会見の時や、テレビ番組に出演した時に、ほとんど目の前にスピーチ原稿を置いていません。 数字の資料メモは持つことがあっても、カメラに向かってしゃべっています。 頭の中から出てくる「ことば」でしゃべっています。 それだけ、数値や医療用語を頭の中にしっかりと入れているのだ、ということが見て取れます。 「知識の言葉」ではなく「暮らしのことば」で 一般民衆というものは、その日その日を「しゃべって」懸命に生きている人間なので、どのような「ことば」が自分の暮らしにとって大切なものなのかを、身体で見極めるのです。 「知識の言葉」ではなく、「暮らしのことば」で、ヒトは生きているのです。 もう一つ。 ふだんの暮らしの中では使わないような「難しい漢字語」を使うことで、自分の知的な優位性を誇示しようと思う小汚い心根は、「漢字語」ではダメだと思ったら、次には「カタカナ外来語」をもってきてその優位性を誇示しようと企みます。 「ガバナンス」や「」や「」や「サスティナビリティ」といった類の「言葉」です。 今回の「コロナ事態」でも、やはりそれが表れてきました。 「ー」「オーバーシュート」「ロックダウン」 始めは専門用語だったのでしょうが、いつのまにかそれを使うことが知的な特権階級の証のようになってきました。 そして、 本来はそういった「言葉」を民衆にわかりやすく翻訳することが役目だったはずのマスコミもそこに加担するようになりました。 この視点から考えると、小池・は「難しい漢字語」や「新奇なカタカナ外来語」を使うことによって自分の優位性を誇示しようとする「古いタイプの政治家」だと言えます。 「私は出口戦略という言葉を使いません。 その代わりロードマップをお示しします」 決して「出口戦略」という言葉が最適だとは思いませんが、民衆の多くがその言葉に共通したイメージを抱くことができるようになったのなら、その言葉を使って多くの人のイメージ喚起力をまとめるのが良い「民衆政治家」だと思います。 使う「ことば」によって、政治的な(主導性)をにぎろうとするのは、姑息な権力主義者の考えです。 「自分の言いたいことがはっきりと言え、また自分の心のすみずみまで言い表すことができ、そして、 聞き手も正しくそれを理解できる」ような「身近な生活のことば」で語ってこそ、「政治」は本当に私たち一般民衆のものになるのだと思います。 は、 「日本語を『漢語』だらけにして、本来の豊かな表現力を失わせたのは『を引っ張った書生たち』である」と言いました。 また、 「うわべばかりのことばを雄弁に唱えるものがばっこする機会を作っている」とも言いました(「国語教育の古さと新しさ」 1953 年)。 から 150 年、は「日本の政治のことば」を変える絶好の機会ではないか、と私は思っています。 makochan5.

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当時の人は、いとをかし って発音してたんですか?

いとをかし 漢字

日本語は天才である 柳瀬尚紀 新潮社 翻訳家から見た日本語とは何ぞや?でしょか?何とゆーか、日本という国は最初っから翻訳の国だものじゃねで、これ伝統芸能だと思ふんだけど?どだろ?今は英米系が主流ですけど、江戸以前なら中国と蘭だろし、まぁ奈良の都の昔から文化を輸入して日本化するというのが習い性のよな 笑 で、まぁ他所の国の言葉を日本語に直すと、さまざまな壁にぶち当たる訳で、そゆ時、日本語だとわりと小回りきくんですよとな…意味だけ拾うと、その文章が持っていたおかしみみたいなのが消えてしまうと、そゆ時便利ですというのが日本語らすぃ… そんな訳で、著者がそんな翻訳例をこれでもかこれでもかと提示して下さっているよな 笑 かくて、翻訳者は日本語で良かったじゃないけど、日々日本語に助けられているんじゃね?で、そんな日本語について熱く語っていらっさいます…臨機応変何でもござれってか?そんな器用貧乏じゃね?な日本語ですけど、「日本語は、世界の言語の中で孤独だと言ってもいいのではないでしょうか。 天才だからこそ孤独である言語、孤独であるからこそ天才である言語-しかし孤独であるけれども豊かなる言語…そんなふうに思うのです」とな… とゆー訳で、本書は、だがそこがいいの世界が展開していらっさいます 笑 アリス的に日本語…まぁこれ商売道具だからなぁ 笑 こだわりがない訳がない訳で 笑 まして相手があのアリスですから、それこそ山よりも高く、海よりも深くあるんじゃまいか 笑 日本語についてのソレで芥川龍之介の場合…「「く」の字が折れた釘みたいで、上の重量をちゃんと受けとめる力が乏しいと書いています」とな…縦書きで字を並べて見るとそういう印象になるそな…さすが天才の視線は違う…作家的にはそれがジャスティスってか? 後は准教授的に猫…猫の字音は、ピョウもしくはミョウだそで、猫の字訓は、ネコなんだそな…漢字の読み方についても色々あるんだなぁと…それにしても愛猫とは和製漢字だったのか?愛猫家とかよく聞くから結構定着しているのかと思っていたら、辞書によっては未だに愛猫って掲載されていないのもあるのか?愛猫という単語が出来てまだ百年未満…だから新しい言葉って…なるほろ、言語界の時間スケールがあるのだなぁ… ちなみに著者は自身の告白によると「ぼくは、古代エジプト人みたいに猫を神のごとく崇めていまして、半ば病的な猫好き。 ですからもう三十年以上、半猫人を名乗っています」の件は、もしや准教授も半猫人じゃまいか?と 笑 本書的に日本語とは何ぞや?ですけど、これ幾つになっても日々是精進という事らすぃ…一時期やたらとニュースが漢字テストみたいなノリに終始した時期があったけど、「日本人でも年齢に関係なく、学歴や社会的地位に関係なく、日本語は不完全だし、よく間違えるということを言いたいのです。 そして言葉は間違えながら覚えるということを言いたいのです」とな…尤も著者はこの後にこれを「とくに若い読者にそれを言いたい」と強調していらっさいますが…語彙という事を念頭に置いた場合、やっぱ日々是精進あるのみなのか 笑 そんな訳で振り出しに戻るじゃないけど、言葉って何というか、書き言葉って何?でしょか?で万葉仮名キタコレだったりして…日本語に漢字導入したとこから考えてみよーって一体 笑 詳細は本書をドゾですけど、万葉仮名一つとっても一筋縄ではいかない世界でして、これだけでも奥が深い…一旦踏み入ったら足抜けできなそーな雰囲気なんですが 笑 でもって、「無一文字だった日本語は、漢字を手に入れて、今度は独自の片仮名と平仮名を作りました。 九世紀には定着した独特の文字です」そして、月日は流れで「室町時代の後半、十六世紀には相当な「文字者」になっていた」そで、ポルトガル語キタコレで、その後世界各国こんにちはで…これ全然知らなかったんですが、冗談って仏語のボンサンス bon sens から来ていたのか?英語で言うとグットセンスが、冗談…昔の人は洒落っけあったんだなぁ 笑 も一つ面白いのは輸入だけじゃなくて、輸出もしていたとゆー事じゃまいか?何か漢字関係というとみんな中国直輸入な気がしていたが、実は中国の外来語辞典に「すでに中国語として定着した和製漢語が九百個近く収録されています」のが現状だったりして…今だともっと増えていそーな気がするけど、中国だからある日突然そんなの関係ねぇーと辞書も真っ白にしそーだよなぁ 笑 とはいえ、世の中には英語を公用語以前に漢字廃止論キタコレだったのか?これ日本人で言ってきた人達がいるという事で何だかなぁ 笑 読み書き的には、総ローマ字、総ひらかな、総カタカナでも読み辛いと思うんだが…「なんといっても漢字仮名混じりが、日本語という天才が長い歴史の中で選び取ったかけがえのない書き言葉だと思います」じゃね?と…まさにそこんとこよろしくだよなぁ 笑 輸入に対して常にオープンな日本語ですから、日本語になかった記号もすんなり日本語に溶け込んでいるとはこれ如何に?でして、例えばクエスチョンマークとか…「横書きの横文字でしか使われなかった記号が、漢字仮名混じりの中にすっとおさまることに、ぼくは改めて感心します」とな… まぁ尤も、このおーぷんざげんごなせーで、最近に日本語はやたらとカタカナが氾濫している状態にもなってはいるが…その辺のとこは如何なものか?とゆーのもあるんじゃまいか?でしょかねぇ… ただ、そんな何でもありに日本語で苦手分野が二つあって、一つが神の御加護をとかお慈悲をみたいな科白…本書的に言うなら、くしゃみをしたら、ゴットプレスユーとキタコレで、これどー訳すよの世界 笑 この手の科白は英語では結構あってこれは日本語にするのは難しい…この手の会話の表現をどーするか?とゆー事らすぃ…でもって、も一つが侮蔑表現・罵倒表現とな…海外の言葉に較べると日本語のソレは少ないというのはよく言われるけど、本当だったんですねぇ…この手の悪い言葉っていぱーいある気がしてきたけど、海外に比べるとまだまだなのか 笑 後、これに関連してはメディアの放送禁止用語を始めとした一連のソレですかねぇ?所謂言葉狩りになってね?なとこで、こちらの詳細も本書をドゾ。 もし全てを廃絶するなら、夏目漱石全集は出せなくなるんじゃね?とゆー事もあると思いますなのか?言葉って一体?ついでに言うと「気違いとかキチガイ-新聞に書くときは、使えません。 翻訳でも、とくに児童書を多く出している出版社では使えません。 担当者に迷惑がおよぶらしいので、ぼくもやむなく従う。 今や大多数の出版物から完全に葬り去られたようです」とな…でもクレイジーとかは平気で使えるよな? 差別用語で驚いたのは、子供、これも差別用語だという説あるのか?子供じゃなくて、子どもと書けとな…いや世の中凄い事になっていたんだなぁ… 極め付けは、シェイクスピア作品はどーよ?という話で…「シェイクスピア作品では、セクハラ告訴も侮辱罪も自主規制も心配せずに言葉が跳ね回る。 シェイクスピアに現れる悪態、侮辱、罵倒、はたまた卑猥な表現を引くとなると、ぼくも品位を疑われはしまいかと、いくぶんためらいます」な世界が展開していく模様… 最早古典ならええねんなら、人は皆、男もすなるになるのか?古典もすなるとか 笑 他に日本語表現で極め付けなのが敬語じゃまいか?で、これについても昔から何それの世界だったのか 笑 「敬語法の研究」 山田孝雄 からとか詳細は本書をドゾですが、一つ「今の文部科学省に当たる省の役人が、「先生どうか、これを御拝見を願ひます」と言ったそうです。 「一國の文教の中心として天下に號令する官吏」が敬語を正しく使えないのは、たんに滑稽と言ってすまされないと批判している」とな…最早、日本人の敬語レベルもそんなもんだよなぁ 笑 それにしても敬語の正反対に、尊大語というものがあったのか?こちらは太宰治のきりぎりすをドゾの世界ですが、そゆはき違えた人はいつの世にもいるもんだなぁで、成功や地位に溺れる人もいぱーいってか… 後は、本書的には激闘のシチとナナでしょかねぇ?こちらの詳細は本書をドゾ。 所謂、七をシチと呼ぶか?ナナと呼ぶか?それが問題だ?なんですが、著者的に言うとシチと呼ぶ方が正しいみたいです。 でも世の中、ナナが氾濫してまいか?で、これどーしてそーなったとゆーと六十年代まではシチが主流だったとな…それが七十年代に入ってからはナナになったと…で、理由の一つが七十年安保闘争からとな…確かにこれナナジュウネンアンポトウソウって読むよな…で、あの時代にニュースで連呼したのが始まりじゃねって…安保ってあの時代からアレだったんだなぁ…それまでは七人の侍の世界だったのに…言葉の乱れに煩いマスコミも自らのソレについては、どよ 笑 他にも方言とか日本語のソレがいぱーい出てくるのですが、詳細は本書をドゾ。 最後に一つ日本語表現的なとこで、同音異義語の多い国だものな日本語でしょか 笑 咄嗟には二つが三つ位しか浮かばないんだけど、例えば「こうしょう」だと107も同音異義語があるそーな…「こうこう」で101、「こうし」で87と世の中にはそんなに同音異義語があったのか? 豆知識的に、日常では玉ねぎの事を日本人はオニオンとか発音するけど、あれ「英語の発音はむしろアニャン」となるのか?何かこの手の話はよくある話なんだろか?最近で言うなら、オスプレイも発音的にはアスプリーらすぃし 笑 後、NYでのタクシーの話のとこで、あちらのタクシーにはヒーターがない…ってホンマでっかぁーっ?なので真冬にタクシーに乗車しても寒いって…それ運転手の身体的にもあると思いますなんだろか?労働環境的にヤバくね? それといろはじゃないけど、英語にも「アルファベット二十六文字を全部使ったパングラムというのがあります」とな…ただ、日本語みたいに一文字だけで一文を作るのは難しいらしーので、重複するアルファベットもあるとな…「英語では一文字一回限りというパングラムが、コンピュータ全盛の現代においても作られていません」だそな…やっぱ母音を外すのは難しそーとトーシロでも思ふ… 日本語的豆知識としてはルビ、ルビーからきているとかの豆知識はよく聞くけど、これ「その印刷所でもっている一番小さな活字を七号という」で、この七号の字の大きさをルビというとな…だからルビって印刷所によって大きさちゃうねんの世界だったとは… 後、面白いと思ったのは喧々諤々…これ喧々囂々と侃々諤々がごっちゃになって出来た言葉だったのか?所謂一つのコラボ? というよーに日本語ってな話がいぱーい掲載されています。 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので興味のある方は本書をドゾ。 非常に平易に書かれているので、出来れば中学校の副読本にどよ?と思うんですが、どよ 笑 目次参照.

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いとをかし 漢字

「いとおかし」の意味とは? 「いとおかし」は「大きな感動」の意味を示す 「いとおかし」は「いと」と「おかし」に分けられます。 「いと」は物事の程度や大きさを表す語で、「とても(大きい)」「非常に(大きい)」という意味があります。 「いと+おかし」で大きな感動を受けたことを表現します。 「おかし」は、現代語の訳として、「趣が深い」「興味深い」「見事だ」「かわいい」などのさまざまな意味に訳されます。 いずれの場合も、強く心を動かされた物事に対しての、肯定的で大きな感動の気持ちを伝えます。 「いとおかし」は平安時代の感性を表す古語 「いとおかし」とは、平安時代に書かれた『枕草子』などに用いられている古語「いとをかし」を、現代語仮名遣いで表記しなおした表現です。 現代文では使わない表現で、古文を現代語で表すときに使われます。 「いとおかし(いとをかし)」は、平安時代の日本人の感性を表す言葉で、さまざまな意味を持ちます。 明るい人生賛歌や知的な美の概念を表現します。 しみじみとした情緒「もののあわれ」を表すもう一つの古語「あわれ」とともに、平安時代の人々の物事に対するきめ細やかな感性を示す表現です。 「いとおかし」はひらがなの言葉で「漢字」は無い 平安時代の文学は平仮名を中心とする和文で綴られました。 そのため、漢字はありません。 「いとおかし」の古語の類語と現代語での類語 感動を表す古語の類語は「あはれ」 「おかし(をかし)」と同じく、感動の気持ちを表す古語に「あわれ(あはれ)」があります。 おかしの文学は『枕草子』が代表ですが、あわれの文学の代表は紫式部の『源氏物語』だと言われています。 「あわれ」とは、しみじみとした趣が湧き上がってくる気持ちを表す言葉です。 「もののあわれ」とも呼ばれ、明るい感情の「おかし」に比べて無常観を含むのが特徴です。 どちらの言葉も平安時代の人々の繊細な感性を表す言葉で、最古の日本文学の根底を支える日本独自の思想であるといえます。 現代語の類語は「素敵」「かわいい」「素晴らしい」 清少納言の『枕草子』は、現代風に言えばユーモアを交えたエッセイだと言えます。 作者の美に対する感受性が土台になっており、心が大きく動かされたときに「いとおかし」を用いています。 現代語で近い表現として「すごく素敵」や「すごくかわいい」「素晴らしい」などを当てることができます。 特に「かわいい」は、現代の女性がさまざまな感情を表す言葉として使われており、多彩な感動の気持ちを表現した「おかし」に通じるものがあります。 さらにくだけた表現としては、「わくわく」「やばい」「超やばい」をあててもよいかもしれません。 『枕草子』での「いとおかし」の訳語と例文 現代語訳では「とても趣がある」と訳されることが多い 平安時代の清少納言の随筆『枕草子(まくらのそうし)』は、「おかし」の文学とも称されます。 『枕草子』は、一条天皇の皇后定子に仕えた清少納言が、日々の生活の中で起こる出来事を、優れた知性と感性で明るい気持ちでとらえ、洗練されたユーモアを交えて記した現代で言うところの「エッセイ」です。 『枕草子』は、多くの現代語への翻訳がされていますが、「いとおかし」の表現は「とても趣がある」と訳されることが多いようです。 しかし近年は、自由な現代語への翻訳も行われており、翻訳者の感性によってさまざまに表現されています。 『枕草子』の原文と訳文例を紹介 『枕草子』の中で、「いとおかし(いとをかし)」が使われている箇所の原文と現代語での訳文例を紹介します。 原文: 秋は夕暮れ。 夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。 まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 現代語訳例 秋は夕暮れがよいですね。 夕日が今にも山の稜線に沈もうという頃、カラスがねぐらへ帰ろうと、三つ四つ、二つ三つなど思い思いに急ぐそんなことが、心に染み入ります。 まして、雁などが列を連ねて飛んでいくのが遥か遠くに小さく見えるのは、とても趣があります。 すっかり日が落ちると、風の音や虫の音などが様々に音を奏で、またこれも言葉に尽くせないほどに美しいものです。 まとめ 「いとおかし」とは、古語「いとおかし」を現代語仮名遣いで表した言葉です。 意味としては、「とても趣がある」と訳されることが多いですが、ゆかいな驚きの気持ちや、爽快な気分、ワクワクする気持ちなど、前向きな様々な感情を表します。 現代の女性の使う言葉にあてはめるなら、「(すごく)かわいい」「(すごく)素敵」が最も近い表現かもしれません。 なお、「おかし」の意味は中世以降に変化して、滑稽な意味での「おかしい」という言葉ができたということです。

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