原爆 ドーム もともと。 いままでの質問(しつもん)

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原爆 ドーム もともと

ここ最近 、核に関するニュースをテレビの報道番組でよく耳にしますよね? 核が初めて出来た当時、核は非常に有効に使える武器と人々は考えていたみたいです。 しかし、過去に核を使用した事により、恐ろしい事態が起こっています。 それが、広島原爆投下です。 今回は広島原爆投下について、取り上げたいと思います。 まず何故、広島原爆投下が起こったのか、二つの段落に分けて説明します。 スポンサーリンク 広島原爆投下の概要 広島原爆投下は太平洋戦争の末に起こっています。 太平洋戦争はアメリカやイギリス、アジアなどを巻き込んだ第二次世界大戦中の出来事です。 第二次世界大戦中、日本は満州国を建てた事によりアメリカとの同盟に失敗してしまいました。 その後、日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結ぶ事に決めます。 この頃から日本は軍事教育をしていたので、やりきれない気持ちになります。 そして、アメリカから直接日本に満州国を元の状態に戻せという内容の提案をしますが、日本はアメリカからの提案を通そうとしませんでした。 この日本の態度にアメリカ側は提案を拒否したものと受け取り、ついに 太平洋戦争が発生したのです。 まず、日本はマレー半島などの太平洋上の島を占拠します。 この事が契機となりアメリカと日本の外交関係が悪化してしまいます。 そしてアメリカ側は日本を攻撃する事に決めました。 太平洋上の島を占拠した頃の日本は戦局的に優位に立っていたみたいです。 しかし、 ミッドウェー海戦 により日本の戦局は一変。 ミッドウェー海戦をきっかけに、日本軍はアメリカ軍に軍事力での差をつけられ、日本は追い詰められる形になります。 しかし、この状況になっても日本はアメリカの要求を受け入れず、アメリカが日本の広島に原爆を落とすことに決めました。 日本の広島に原爆を落とすことにした年月日は 1945年8月6日です。 fc2. jpg この時に使用された核爆弾は リトルボーイです。 このミサイルには、人の体に悪影響を及ぼすウラン235が入っています。 ウラン235はウランの種類の一つで、中で分裂反応をしたり、エネルギーを出す性質を持っています。 このウラン235が、放射能を浴びた被害者を出した原因だったのです。 wikimedia. jpg リトルボーイはアメリカ合衆国で作られた物で、この爆弾を落とすのに用いられた爆撃機がB-29爆撃機(エノラゲイ) です。 B-29爆撃機はウラン235が入った核爆弾を広島の地に落としました。 原爆投下により死亡した人の数ははっきりと分からないですが、 推測で14万人 に昇ると言われています。 直接、核爆弾の被害に合わなかった人も爆発地の近くにいているだけで、身体に甚大な怪我を負ったそうです。 リトルボーイは広島県広島市の上空の高度9600mから投下されます。 そして、細工町の島病院上空約600mの所で爆発しました。 ちなみに、細工町は現在の地域で広島市中区大手町になっています。 47news. jpg リトルボーイが爆発すると、 キノコの形をした雲が作られていきました。 爆発した瞬間、まばゆい光の衝撃がやってきます。 まばゆい光の衝撃の後、爆発の衝撃が建物や人々を襲いました。 まず建物ですが、衝撃に耐えきれず、崩れてしまいます。 素材が頑丈な物で出来ているレンガ造り、小コンクリート製の建物が、崩れてしましました。 この出来事により、建物の下敷きになった人は圧迫により死亡に至ります。 怖いですよね。 建物に取り付けられているガラスは自然の素材の中でも特に衝撃に弱く、もろく出来ているので爆発の影響で割れます。 割れたガラスは爆発により生じた風の勢いに吹き飛ばされ、人間の体を通過します。 ガラスが突き刺さった人間はすぐに死亡に至ります。 ガラスが体に突き刺さっても、しばらくの間は生き残っていた人もいましたが、ガラスは鋭いので重傷を負ってしまった人が大多数です。 かなり痛そうです。 広島原爆投下の動画があったので、おいておきますね。 少し画質が粗いですが、大まかな戦争の様子が伝わってくると思います。 そして爆発により生まれた熱線で体を構成している組織がボロボロになってしまいます。 また、非常に高い熱により、回復不能になるくらいの火傷を負ってしまいます。 火傷が治った後も、ケロイド症状を発症しました。 ケロイド症状とは、火傷の影響で皮膚が盛り上がる症状の事です。 また 放射能の影響を受けた妊婦にも爆撃の影響を与えています。 爆撃の影響により妊婦のお腹にいる赤ちゃんが死亡するというケースがあります。 また直接死亡に至らなくても、乳ガンや肺ガンの症状を抱えてしまう赤ちゃんもいました。 爆撃の中心地から離れている地点にも、甚大な被害が出ました。 熱線による火の粉も浴びると、人の皮膚を焼き尽くしてしまいます。 リトルボーイにより被害にあった地域の面積は 13200000㎡。 死者は118661人、怪我人は82807人だと推測されています。 今の生活で生きてる人からしたら想像もつかない数ですよね? この事実や推測から広島原爆投下が前代未聞の出来事という事が分かります。 goo. jpg 原爆ドームとして現在、文化遺産に登録されている 広島県産業奨励館という建物が当時の戦況を今でも伝える建物として知られています。 原爆が投下される前の広島県産業奨励館は、広島県発祥の特産品を見せる建物で、商品の取引も行っていました。 原爆ドームが前は、こんな建物だったなんて、びっくりしますよね? 原爆によって、建物自体が破壊された後は、残骸となってしまいますが、広島に原爆が落とされた時、広島の地にあった建物がほとんど焼失してしまいます。 でも、広島県産業奨励館は、焼けたにも関わらず、倒壊を避ける事が出来ました。 そして時代が過ぎるにつれて、徐々に産業奨励館は、原爆ドームと呼ばれるようになります。 そして、1966年に広島市議会で原爆ドームの保存をする事に決定しました。 そして、1995年に国の史跡に決定しました。 そして、それが世界の人々に認められ、平和の世界を目指す為に後世に伝える建物として、 1996年に原爆ドームは世界遺産に登録されました。 世界遺産に登録される前に、こうした背景があったとは、びっくりしますよね。 しかし、広島県産業奨励館が爆発した時、中に人がいて、死亡者が出ました。 広島原爆ドームは悲劇の象徴です。 なので、個人的に世界遺産に登録された出来事は複雑だと思いました。 黒い雨は何故降ってきたのか? 広島に原爆が落とされて、原爆の惨劇が終わったわけではありません。 原爆投下の日から数日経過した後に、空から 黒い雨が降ってきます。 この 黒い雨の正体は 放射能やホコリ、泥です。 何故、この雨が降ってきたか簡単に説明します。 原爆から出た放射能は消えずに大気に残っている状態になります。 そして、放射能を含んだ大気がホコリとともに上昇して、やがて雲に変化します。 そして雲から放射能を含んだ黒い雨が降ってきました。 この雨は広島市に集中的に降り注ぎ、何年もの間、人々を苦しめました。 この黒い雨を直接、浴びてしまうと、上で記述した通り、放射能を浴びた時と同じ症状を出してしまいます。 また、頭の毛が抜けたり、白血病、出血などの症状も出てきます。 また、黒い雨により動物や魚が呼吸出来なくなり、死亡しました。 このような環境汚染によって変わる自然の光景も当時の人々に恐れられていました。 放射能を浴びると、数年経っても回復しない事が多く、後遺症として人の体に残りました。 今聞くと、想像もつかない状態ですよね? スポンサーリンク 広島原爆投下、その後 鈴木貫太郎内閣の時に日本側はようやく降伏を認めて、 ポツダム宣言を出します。 この宣言により、日本は GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領に組み込まれる事になります。 その後、陸軍や海軍などの省が廃止になります。 また戦争に参加した軍人が職業に就く事を政府が禁止します。 出典:city. hokkai. jpg その後、日本国憲法が出ました。 憲法というと難しいイメージがありますよね。 日本国憲法は、分かりやすく言えばいくつかの決まり事が書かれている憲法の事です。 詳しく述べるならば、日本国憲法では、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、立法権を国会に属すると定めています。 やっぱり憲法って難しい・・・。 日本国憲法で日本は広島原爆投下のような出来事を繰り返さないために、 平和主義を掲げています。 日本国憲法第9条第1項では戦争の放棄を、第2項で戦力の不保持、第3項で交戦権の否認に関する事が書かれています。 この内容から日本を戦争の悲劇を繰り返さない決意をくみ取る事も出来ます。 日本国憲法が公布されて、その後、日本は国際的な道を歩む事に決めました。 この状況にあっても立ち上がった日本は凄いと思います。 個人的に広島原爆投下は日本人が経験したくない痛ましい出来事だったに違いないと思います。 そして、原爆投下によりトラウマが出た日本人も多いです。 トラウマは長い時間が経過していくと、元の状態に戻す事が不可能になってきます。 聞いてるだけで、複雑な心境になりますよね? 私は家族と広島県に行った時に、原爆ドームに行った事があります。 原爆ドームの中に入ると、戦時中に撮られた写真の資料が数多くありました。 その写真の中には広島原爆投下により、皮膚が爛れた人の写真や黒く焦げた人の集団の写真があり、本当に現実の日本で起こった事なのかと怖く思いました。 人間をこんなむごい形で殺すなんて許されない事だし、頑張って生きようとする人の可能性をつぶすなんて、絶対にあってはならない事だと強く思います。 そして、 私は放射能を含んだ原発や核を 今すぐに無くして欲しいと思いました。 まとめ 出典:blog. onekoreanews. jpg ここ最近、NHKが核戦争に関して日本国民が思っている事というテーマでアンケート調査をしました。 なんと、近い将来、核戦争が起きると考えている日本人が 70%もいたのです! 確かに現在でも核を保有している国は数多いですよね。 現在では北朝鮮やインド、パキスタン、アメリカ、ロシアなどの国が、核を保有しています。 また世界の情勢に目を向けてみれば、あらゆる所で紛争が絶えない状況にあります。 これでは、核無き世界を目指すという事は難しい事だと思うし、ふとした事がきっかけで戦争に発展する可能性があるかもしれないですよね。 しかし、そんな現代だからこそ当時の悲劇を繰り返さない為に、平和な世界を目指す事が大事だと思います。 これからの時代の中で、過去の広島原爆投下の事を知って脅威的な核の恐怖を知り、広島原爆投下の事は決して風化させてはいけないと私は強く思いました。 最後まで読んで頂き、ありがとうございました! スポンサーリンク•

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「意見の重さを知って欲しい」 原爆ドームのイルミネーションについて、24歳のボランティアガイドが考えたこと

原爆 ドーム もともと

突然ですが、みなさんは「 原爆ドーム」を見たことはありますか? 原爆ドームは、平和の大切さを世界に訴えるシンボルとして1996年に世界遺産登録されました。 日本人にとってはもちろんのこと、世界中の人にも大きな影響力をもつ建築物として、重宝されています。 多くの方が、教科書などで原爆ドームを目にしたことがあると思いますが、実際にその姿を見た経験のある方はそう多くはないのではないでしょうか。 今回は、そんな原爆ドームの姿をストリートビューで見に行きたいと思います。 また、普段は柵で囲まれているので中に入ることはできませんが、ストリートビューでは原爆ドームの中に入ることができます。 内側の魅力まで探りに行きましょう。 観光地のシンボル 原爆ドームは、広島県広島市に位置し、広島城や平和記念資料館が立ち並ぶ観光エリアの中でも、ひと際その存在感を発揮しています。 すぐ近くには、その名がついている「原爆ドーム駅」があるため、大変アクセスのよい場所となっています。 原爆ドームって 原爆ドームの歴史 広島県物産陳列館 現:原爆ドーム は、大正4年に完成しました。 今から100年ほど前の話です。 当時の広島は、日露戦争の影響により近代工業が発達し、経済が活性化していました。 この経済的発展に伴い軍需品のさらなる開発や、既存商品の品質向上、販路の拡大などが活性化していき、拠点作りが求められたため、建設が開始されました。 当時には珍しいヨーロッパ調の建築物は広島に住む人々を驚かせると同時に、多くの人々を惹きつけました。 物産陳列館の役割は、広島県内の物産のみならず、他府県からの参考品の収集や陳列、さらには取引の紹介に関する新聞・雑誌の閲覧、図案調製等でした。 また、陳列館としての役割のみならず、会場自体を提供することで博物館や美術館の役割も果たしました。 原爆ドームと呼ばれる理由 現在は原爆ドームと呼ばれているこの建物ですが、誕生当時の「広島県物産陳列館」から、1921年には「広島県立商品陳列所」へ、さらにその12年後の1933年には「広島県産業奨励館」へと改称されています。 そして戦後、産業奨励館の残骸を見て、いつしか市民が「原爆ドーム」と呼ぶようになりました。 1996年に原爆ドームは世界遺産登録され、時代を越えた核兵器の根絶と永遠に続く平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。 もともと、鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、今でもその面影を垣間見ることができます。 周りには黒い柵が張られており、市民や観光客が勝手に立ち入ることのないよう厳重に注意されているようです。 原爆ドームの左側には「元安川」が流れており、穏やかな雰囲気が辺りを包み込んでいます。 原爆ドームの中へ 普段は入場出来ない原爆ドームの中へ、いざストリートビューを通して入ってみましょう。 内側の芝生の面積もとても広く、普段、どれほど離れたところから原爆ドームを眺めていたかということが分かります。 それにしても、近くで見ると迫力が違いますね。 建物の外側には、煉瓦の残骸が散らばっています。 黒い柱によって支えられている内部からは、原爆ドーム保存に向けた取り組みを垣間見ることが出来ます。 被爆後、被害を受けたままの姿で維持されてきましたが、雨や風などにさらされることで建物が劣化し倒壊する恐れがあったため、1967年に初めての保存工事が行われました。 その後、数回に渡って行われている工事は、全て世界中の人からの協力で集められた募金によって行われています。 このことは、人々の平和への想いと原爆ドームが果たしている役割の大きさを改めて感じさせてくれますね。 この広場の壁は灰色になっている部分も多いですが赤色が残っている部分もあり、当時の面影を感じさせてくれます。 それにしても、この煉瓦の量が尋常ではありません。 崩れ落ちた大量の煉瓦が、原爆の被害の様子を物語っているかのようです。 第二次世界大戦中に戦争に動員された学生と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を祀っているものです。 動員学徒慰霊碑の他にも、平和記念公園の中には様々な記念碑があるので、是非上のストリートビューで探索してみてください。 前広島市長からのメッセージ 動画では、ストリートビュー撮影時の様子と秋葉忠利前広島市長から頂いたメッセージを紹介しています。 今回は原爆ドームの周りを二輪自転車で撮影していることに加え、その自転車が街中を走っている様子を見ることもできるので、是非ご覧ください。 最後に 戦争を経験した人々が少なくなってしまった今、この原爆ドームが後世に残す影響力はこれからも大きくあり続けると思います。 また、普段見ることのできない内部を見ることが、平和への想いをより一層強化するきっかけとなっていることを願います。

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原爆 ドーム もともと

チェコ出身設計者の水彩画発見 世界遺産でもある原爆ドームの前身、広島県物産陳列館の完成予想図が広島市内で見つかった。 日本人助手が経緯を記した直筆原稿の現存も分かった。 レツルは07年に来日し、東京で建築事務所を開く。 広島県知事に13年2月就いた寺田祐之の求めでデルタ中央部を流れる元安川の左岸、猿楽町(現中区大手町)に建てる物産陳列館を設計し、現地を訪れた。 完成予想図は、れんが造り一部鉄骨で正面5階の屋根は銅板の楕円(だえん)形、壁が湾曲するモダンな造形を鮮やかに伝える。 城下町時代からの雁木(がんぎ)や、対岸の慈仙寺鼻(現平和記念公園)を結ぶ相生橋も収める。 「建築学士やん.れつる」の落款を左隅に押し、英字表題とサインを右隅に入れていた。 事務所で働いた建築家市石英三郎氏が当時の日誌を基に残した原稿によると、レツルは13年6月設計にかかり、10月に仕様書などを含め県に送付。 12月に広島へ向かい、14年1月16日に東京で「透視図を自ら仕上(しあげ)た」という。 物産陳列館は1月に起工、翌15年4月に完成、8月5日に開館する。 完成予想図は2階貴賓室に飾られていたが、被爆前に館外へ持ち出されたとみられる。 原爆は45年8月6日、この建物の東南約160メートル、上空600メートルでさく裂した。 96年に世界遺産となった。 レツル直筆画は、広島商工会議所副会頭でもある田中秀和さん(68)=東区=が入手した。 もともとは広島県物産陳列館として15年に開館した「水の都」広島のシンボルでもあった。 設計者ヤン・レツルが14年に描いていた完成予想図は、被爆地の経済人が協力して今夏、ドームを望む東隣の複合ビル「おりづるタワー」で展示される。 (西本雅実) 直筆画を入手したのは、南区の田中電機工業会長で広島商工会議所副会頭も務める田中秀和さん(68)。 母が被爆し、幼いころは原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の検査対象者とされた。 「広島の歩みをよみがえらせる宝物。 購入にためらいはなかった」。 33年に改称された県産業奨励館が44年の業務停止後に移したとみられる関係者の親族が受け継ぎ、中区の画廊を通じて持ち込まれたという。 田中さんは、現存していたレツル直筆画の活用を探り、2016年にオープンしたタワーを運営する広島マツダの松田哲也会長(49)に見せた。 広島の新たな魅力づくりを図る松田さんの思いに共鳴し、タワーへの寄贈を決めた。 広島マツダはドームだけが残った猿楽町(現基町)で創業。 祖父は原爆死した。 松田さんは「保管方法もしっかり練り、8月1日には12階のおりづる広場で展示したい」と協議を重ねている。 設計から作画までの経緯を記した文書もあった。 レツルに師事した建築家市石英三郎氏が、広島市がドーム保存工事を初めて行った翌68年に書いていた。 「原爆ドームの今昔」と題した直筆原稿は、市史編さんに当たった松林俊一さん(74)=安佐北区=がレツルの足跡を追うなか、82年に死去した市石氏を知る研究者から寄せられていた。 長い間幻だった物産陳列館の完成予想図を確かめ、松林さんはこう話した。 「設計図に加え完成予想図を施工主に示す建築文化は広島では知られていなかった。 レツルの熱意が浮かび上がる。 市民の装いや屋台も描かれ、当時の暮らしとモダン都市へと歩む広島の姿が伝わってくる歴史的な絵画でもある」 (2018年5月13日朝刊掲載).

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