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【フォートナイト】弟子と妹子達を怖すぎるホラーマップでしごいてみたwwwww

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落語家、立川志らく(56)が28日、「辛坊治郎 ズーム そこまで言うか! 激論Rock&Go!」に出演。 日本テレビ系「笑点」(日曜後5・30)について言及した。 MCを務める辛坊治郎氏(64)は「志らくさんのような生き方の人から見て、例えば笑点に出ている落語さん ってのはどうなんですか?」と尋ねた。 志らくは「私、若いころ『笑点』なんか無くなっちゃえってことを、本に書いたんですよ。 落語論の本書いて…」 と振り返った。 世間の人が落語を意識するのは『笑点』だったとし、「そうじゃないんだ、名人の落語を聞いてごらんなさい。 かっこいんだから、面白いんだから。 『笑点』なんかなくなっちゃえばいい!」と記載したと告白。 「だから『笑点』を全部、敵にまわしちゃったんですよ。 楽屋に行っても『笑点』のお師匠さんなんかいても、 誰も口をきいてくれない」と話し、共演者を笑わせた。 現在は考え方が変わったという志らく。 「今思うと、『笑点』があったから、日本人が落語というものを忘れずにいてくれたんだなと。 今は考え方は 違います」と感謝を述べた。

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からつけあっきぃの素顔や本名、年齢など大調査!彼女や曲の歌詞についても!

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**************************************** 孔子 二 孔子とその弟子たち (文・寺尾 善雄 絵・大塚 律子) 孔子は自分が仕えるにふさわしい主君を求めて、諸国を巡り歩いた。 しかし、その夢はかなえられない。 故郷に帰った孔子は、弟子たちの人間教育に情熱をもやす。 …… 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 孔子像 中国に古くから伝わる思想を深め、人間の理想 的な生きかたを「儒教」としてうちたてた。 故宮博物院蔵 孔子廟への道 大成殿から孔子廟までの道の両側には、 石人や石獣がならんでいる。 右=孔子手植えのマツ 孔子みずから植えたマツと伝えられている。 左=曲阜(きょくふ)の町 魯の国の古城壁跡や 孔子廟がのこる古い町である。 右=孔子像 人々の尊敬をうけて、皇帝のような姿につくられている。 曲阜の孔子廟大成殿内。 左上=曲阜(きょくふ)の孔子廟大成殿 孔子をまつるところでは、もっとも大きい。 1 まず生活を豊かに…… 天下 (てんか)をめぐっていた孔子と弟子の一行が、ある大きな町へさしかかった。 弟子が孔子にたずねた。 「たくさんの人ですね。 先生、これらの人をどうしたいと思われますか」 いつも「仁」とか「礼」とかを口にしている孔子のことだから、そういうことを教えたいというにちがいない。 弟子はそう思ったのだが、孔子のこたえは意外だった。 「まず生活を豊かにしてやりたい」 オヤオヤ、弟子はおどろいた。 「それでは、そのつぎには?」 「学問を教えてやりたい」 くうやくわずの人間に、仁も礼も学問もへったくれもないことを、孔子はよく知っていた。 人間にとって、生活が豊かになることが第一だからである。 今でもそうだ。 たくさんの弟子のなかには、ひまさえあれば、ゴロゴロ、ブラブラしている者もいたとみえ、孔子はこうもいっている。 「昼間から何もせずにノラクラしているとはこまったものだ。 ほれ、ゲームという遊びがあるだろう。 それでもしなさい。 頭の体操にもなるのだから、何もしないでボヤーッとしているよりは、ましだ」 聖人の代表のようにいわれている孔子が「ゲームでもしろ」というのはおもしろい。 仏教をはじめた シャカ、キリスト教をはじめた キリスト、ギリシアの哲学者 ソクラテスとこの 孔子である。 孔子は魯の国の歴史書である『春秋』を整理・編集したという。 当時、中国は春秋時代 (紀元前七七〇〜紀元前四〇三年)という乱れた世であった。 大きな国が小さな国を攻めてほろぼし、自分の領土にすることがさかんに行われ、大きな国どうしも戦いあうという、日本の戦国時代のような世の中だった。 はじめ一四〇あまりもあった国は、この頃にはめぼしい国は一〇いくつにへってしまっていた。 孔子の生まれた魯 (ろ)は小国だったので、いつも大国の侵略におびえていた。 年とってから孔子は、自分の一生、それも心の成長ぶりをつぎのように語っている。 「私は十五才で学問をはじめ、三十才、で独立した。 四十才で自分の方針に確信がもてた。 五十才で天からあたえられた使命を自覚した。 六十才で、だれの意見にも、すなおに耳をかたむけられるようになった。 そして七十才になると、自分をおさえる努力をしなくても、心の調和がたもて、自由な境地に達した」 これだけみると、孔子の一生はたいらでまっすぐだったようにみえるが、どうしてどうして、とても浮き沈みの多い、苦労の連続であった。 学問を身につけた三十才の孔子は、魯の倉庫番や家畜係というひくい職についた。 帳簿はきちんと整理され、家畜はよく育ったという。 三十三、四才の頃、周という国の都の洛邑 (らくゆう=今の洛陽)へ学問をしにいって、 老子という大学者に教えをうけた。 魯の政治をかってにうごかしたため、主君の昭公が討とうとしたが失敗した。 老子をたずねた孔子 孔子が老子に教えをうけたという場面をえがく。 孔子はこのとき、昭公 (しょうこう)のあとをおって斉へいった。 七年後、昭公は外国で死んだので、孔子も帰国した。 学者としての孔子の名前はようやよ高まり、入門する (弟子入りする)者も多くなった。 五十二才のとき、魯の定公 (ていこう)にもちいられて本格的に国政にあたり、大司寇 (だいしこう=法務大臣)にまで進んだ。 五十三才のとき、斉の主君と定公との国境での会見のおともをし、魯を小国とあなどっておどし、定公をとらえようとたくらんでいた斉を逆にやりこめて、功績をあげた。 五十五才になって、さきの外交上の手柄によって、孔子の政治家としての力は、人々に認められるようになった。 太公望ともよばれた呂尚(ろしょう)という人が、周の国の建国につとめた功績により、斉の国をあたえられた。 はじめは勢いがよかったが、秦の始皇帝にほろばされた。 定公も大臣たちも、斉 (せい)が期待したとおり、政治を忘れて、斉がおくりつけた踊り子たちに夢中になった。 五十六才になっていた孔子はそれをみて失望し、魯を見捨てた。 まことに政治家としては、ちょっとの間の栄光であった。 それから六十九才で祖国に帰るまでの十三年間、孔子はたくさんの弟子をつれて衛 (えい)・宋 (そう)・鄭 (てい)・陳 (ちん)・蔡 (さい)・楚 (そ)の国々を、次々にまわった。 魯ではたせなかった政治の理想を実現したいと思ったからだが、その希望はついにはたせず、老いた身でまた生まれた国の魯にもどった。 魯に帰ってからの孔子は、自分につかえてほしいとの哀公 (あいこう)のすすめもことわり、『書経 (しょきょう)』『詩経 (しきょう)』『春秋 (しゅんじゅう)』などの本の整理・編集と、弟子の教育にあたった。 七十一才のとき、長男にさきだたれ、その翌年には最愛の弟子の顔回 (がんかい)に死なれ、さらに勇敢な弟子の子路 (しろ)にも、衛の内乱にまきこまれて戦死された。 子路が死んだ年、 孔子自身も亡くなった。 3 ひろまる孔子の教え 孔子が死んだのち、弟子たちは全国へちらばって孔子の教えをひろめた。 これを「儒教」という。 儒教はのちに中国で最も大切で権威のある学問となり、教育はすべてその教えを基本とした。 それにつれて孔子の地位もあがり、とうとう「大成至聖文宣工」という工の位までおくられた。 孔子の生まれた魯の曲阜 (きょくふ)には、孔子廟という、立派な廟 (びょう=お墓)がたてられている。 一九八四年 (昭和五十九年)の春、私がたずねたときも、じつにたくさんの人がおとずれていたのには、びっくりした。 孔子はいまも、中国人の心のうちに生きているのだな、と思ったのであった。 その孔子のしたこと、いったことを中心に、弟子や諸国のえらい人との会話、弟子たち自身のしたこと、いったことなどを、孔子が死んだのちにまとめたのが、有名な『論語』である。 『論語』は世界で最も有名な古典の一つであり、もちろん儒教の第一の本である。 古く日本にも伝えられて、日本人の考え方に大きな影響をあたえてきた。 その中の有名な言葉は、名言として日本人に親しまれている。 「義 (ぎ)を見てせざるは勇 (ゆう)なきなり」 (正しいとわかっていてしないのは、勇気がないことだ) 「過 (あやま)ちては、すなわち改 (あらた)むるに憚 (はばか)るなかれ」 (間違ったとわかったら、すぐあらためなさい」 「過 (す)ぎたるは、なお及ばざるがごとし」 (やりすぎは、やりたりないのと同じで、どちらもよくない) 「過 (あやま)ちて改 (あらた)めざる、これを過 (あやま)ちという」 (あやまちをすることよりも、あやまったのにあらためないのが、本当のあやまちだ) 「性 (せい)、相近 (あいちか)し、習 (なら)い、相遠 (あいとお)し」 (人の生まれつきの性質は、誰でもにかよっているけれども、教養や習慣のちがいで、差がついてしまう) 「小人 (しょうにん)の過 (あやま)つや、かならず文 (かぎ)る」 (つまらない人間は失敗すると、とりつくろうことばかり考える) などである。 『論語』はこのように、人がこの世の中でくらしていくには、どんな心がまえが必要か、どんなことに気をつければよいか、他人にたいして、どういう気くばりをしなければならないのかなどについて、わかりやすくかかれている。 二五〇〇年後のいまでも役にたつのは、そのためである。 孔子のえらい点は、相手の性格におうじて、一番ふさわしい教え方をしていることである。 孔子像 江戸時代、水戸光圀に儒学を教えた朱舜水が明国(中国)から もち帰った像。 性質はあらっぽかったが、正直で勇気をこのんだ。 熱心に孔子につかえたが、争いにまきこまれて死んだ。 「教えをうけたら、すぐ実行しなければならないでしょうか」 とたずねたところ、孔子は、 「親に相談してからにせよ」 とこたえる。 ところが、同じ質問をした弟子の 冉有 (ぜんゆう)には、 「もちろんだ。 すぐ実行せよ」 と答えている。 同じ質問なのに、答えが違っているのを不思議に思ったべつの弟子が、そのわけをきくと、孔子は、 「子路は血気にはやるからたづなをひきしめ、冉有 (ぜんゆう)はひっこみじあんだから尻をひっぱたいたのだ」 と答えているのが、それである。 冉有(ぜんゆう) 孔子の高弟で、 とくに政治の面で すぐれた才能をしめした。 4 あせりと自信 前にもかいたとおり、孔子は十三年間も天下をまわった。 それはつかえるのにふさわしい主君をみつけ、自分の理想を実地にいかすためであった。 「私に政治をまかせてくれれば、一年で国の基礎をつくり、三年で効果をあげてみせるのに」といったり、弟子から、 「かりに宝玉が手元にあるとしたら、先生はこれをしまっておきますか、それとも目のきく商人に売りますか」 となぞをかけられて、 「もちろん宝のもちぐされは嫌だね。 私は目のきく買い手をまっているのだ」 とこたえたりしている。 また、あまり評判のよくない人から、仕えてくれないかと誘いがかかった時も、 「私は、苦いウリみたいに、いつまでも人にもぎとられずにぶらさがっていたくない」 といって、その誘いにのろうとしたこともある。 孔子は主君に仕えるのにあせっていたのである。 けれどもそのあせりは、立派な主君につかえて出世したい、楽をしたい、贅沢をしたいという個人的な欲望からではなくて、あくまでも乱れた世の中を平和にしたいという願いからだった。 だから、ある隠者 (いんじゃ=世間とのかかわりをやめて、野や山でひっそりくらしている賢者)から、 「こんな乱れた世の中を正しくしようなどと、むきになることはない。 そんなことを考えていると、命があぶないよ」と忠告されると、 「乱れた世だからこそ、正さなければいけない。 それが私の役目だ」 とこたえている。 かわら 魯の国から出土したもの。 この頃から 木材・金属・製陶などの手工業が発達した。 孔子が、 「世の中を救えるのは、私だけだ」という自信をもっていたことは、つぎの話でもわかる。 大国で商業が栄え、文化が発達したが、春秋の時代になるとおとろえ、ついに斉・楚・魏の連合軍に攻められてほろんだ。 「昔の聖人の教えは、私がひきついでいる。 いわば、私は天の申し子だ。 天がその教えをほろばすつもりなら、それを私に伝えるはずはない。 その教えを世にひろめようとしているこの私を、宋の連中がどうにもできるものか」 ところが孔子は、同じような目に、もう一回あっている。 これも宋の国へいったときのこと、孔子が主君にもちいられそうだときいた大臣の桓魋 (かんたい)は、もし孔子がつかえれば、自分はやめさせられるだろうと心配して、孔子を殺そうとした。 それを知った弟子が、 「危険ですから、はやくここを去りましょう」と勧めたところ、孔子はいった。 「私は天から、この世を正しくするよう命じぜられている。 そんな私にたいして、桓魋 (かんたい)のような者に何ができようか」 5 最も大切な心がけ 孔子が、弟子を教えるにあたって、いつもいっていたのは、 「教わったら、実行しなくてはいけない」ということである。 実行することを、むずかしい言葉でいえば「実践」である。 孔子にとって、実践のともなわない学問は、本当の学問とはいえなかった。 そこが理論だけのギリシア哲学とちがうところである。 『論語』の一番初めにも、 「教わったことをいつも実践する。 何とすばらしいことではないか」とかかれている、 だから孔子は、口先だけで実行しない者を嫌った。 「口のうまい者、うわべだけ立派な人に、本物はいない」 「本当に立派な人は、たとえ自分には損になっても、人のためによいことをするものだ」 「よいことを教えられたら、自分で実行すること。 それをせずに、すぐほかの人にしゃべってしまったら、そのよいことは自分の身につかない」 などと弟子をいましめている。 孔子の学校 琴をひいている。 心を養うということから、儒教では音楽を重視した。 では、孔子にとって、実行しなければならないこととは、何であったろうか。 その第一は「仁」 (じん)である。 仁とは、いつくしみ、憐れみ、情け、思いやりの気持ちのことで、仏教のいう「慈悲」、キリスト教の「愛」に近い。 こうした時代に、孔子が人を愛することを第一ととなえた思想は新鮮だった。 他人にたいするこのような気持ちをいつももってさえいれば、人と人との間はうまくいくというのである。 いくら世の中が進み、科学が発達しても、私たちが人間の世の中に生きているかぎり、一番大切な心がけではなかろうか。 つぎに孔子が大切だとしたのは、「徳」と「礼」とである。 徳とは他人から尊敬され、したわれ、頼りにされるような立派な品性をいう。 よく「あの人には徳がある」といわれる、あれである。 礼とは、物事を正しくおこなうことで、口のききかたや、行いを乱暴、ぶっきらぼう、つつけんどん、あらあらしくしないこと、「礼儀正しく」他人にむかうことである。 6 学問をして、実践する 孔子は、このようなことを身につけるためには、学問をすることが大切だといっている。 人から教わる。 自分で考える。 そして実践する。 この三つをいつも繰返しながら、だんだん本物の人間にならねばならない。 そのうちのどれが欠けても、本物にはなれないという。 「ひとつの村には、私のように立派な人はいるだろうが、私ほど学問好きな人はいまい」 「学んでも自分でよく考えなければ、本物にはならないし、いくら考えても学ばなければ、これまた本物にはなれない」 と、学問をすることの大切さを述べている。 政治を徳によっておこなえば、北極星がおなじ場所にいて、ほかの星がそのまわりをまわるように、みながしたうものだと孔子はいった。 魯の国の城壁跡 孔子がうまれ活躍したころの城壁跡が、 山東省の曲阜にのこる。 上に立つ人が、仁の心深く、徳があり、礼を心得て政治を行えば、しぜんによく治まる。 けれども、上に立つ人が権力や法律にはかりたよると、下の者は「つかまりさえしなければよい」とか、「うまくごまかしてやろう」という気になるばかりだ、といましめている。 徳治 (とくち)主義は、とりもなおさず、上に立つ人がまず自分を正すことである。 自分を正しくしないと、いくら命令をしても、下の者が従うわけはない。 だから徳治主義とは、上に立つ人がまず正しい人間になれという考え方なのである。 けれども、孔子のいたころは、国と国とが攻めあい、人と人とが殺しあう時代であった。 そんな時代には、力だけがものをいう。 いくら正しくても力がなければ滅びるほかはなく、みんな国も人も、生残るために強くなりたい、それだけを願っていた。 そんな時代だから、孔子の教えは「まだるっこしい」「今の世に役にたたない」と人々に思われた。 孔子の教えが世の中に認められるのは、天下が太平になった漢の時代に入ってからで、孔子が死んでから五〇〇年も後のことである。 古代中国の歴史のうつりかわりをしるしている。 人間味豊かな内容によって、今日でも広くよまれている。 「孔子には三〇〇〇人の弟子がおり、そのうち、一定の水準に達していた者は七二人いた」 とかいてあるが、三〇〇〇人は大げさで、実際は七、八十人だったらしい。 『論語』には、そのうちの約三〇人の名前が出てくる。 その中で一番よく登場するのは子路である。 子路は孔子よりも九才下で、弟子のなか、では最年長である。 武勇にすぐれ、気性も男らしく、さっぱりとして、まがったことの大きらいな人物であった。 その入門のいきさつがおもしろい。 赤いおんどりの羽根でかざったかんむりを横っちょにかぶり、腰の長剣をひねくりまわしながら孔子にいった。 『論語』には、子路のエピソードが数多く出てくる。 子路 もとはやくざだったが、 孔子にひかれて弟子となった。 「たとえばまがりくねった木でもな、きちんと線をひいてきり、ちゃんとけずれば、まっすぐな用材 (ようざい=材木)になる。 人間も同じことで、学問をすればしだいに本物になれるのだ」 「なるほど」 子路はうなずいたが、なおもいう。 「では、私は、まっすぐなものを例にだそう。 たとえば竹だ。 これをけずって矢にすれば、かたいものでもつき通してしまう。 どうだ」 「そのまっすぐな竹に羽根をつけ、先端にとがったやじりをつければ、矢はいっそうつきささるではないか。 人間の場合の学問も同じことだ。 どうだ、たいした得だろう」 子路はいすまいを正して、大きく一礼した。 「やっとわかりました。 私も学問をしたくなりました。 弟子にしてください」 8 わかるということ…… 根がまっすぐな人間だけに、いったんやるときめたら、子路は本気だった。 孔子から何かを教わると、それが実行できるようになるまでは、ほかのことに見向きもしなかった。 入門してからまもなくのこと、子路が琴をひきながら流行歌を口ずさんでいるのを耳にした孔子は、たわむれにほかの弟子にいった。 「子路はやはり、だめな男だな。 立派な音楽ではなくて流行歌をうたうとは」 それを、ほかの弟子からきいた子路は、後悔とはずかしさのあまり、食事も喉を通らなくなって痩せてしまった。 あまりのしょげぶりに孔子もかわいそうになって、 「間違いだとわかれば、それでよいのだ」 となだめるほかはなかった。 それで子路はやっと、元通りにもどったのだった。 ある時孔子が、しみじみと嘆いた。 いっそ、いかだにでものって海へ出ようか。 おまえなら喜んでついてきてくれるだろうね」 「はい、先生、喜んで」 先生は、自分を頼りにしてくださっているのだ……と子路はよろこび、孔子も、どこまでも自分と行動をともにしようとする子路をうれしく思った。 だが、やがていった。 いかだの材料をどうするつもりだね。 失意の日々も長くつづいたのである。 子路は、早のみこみで、わかっていないのに、わかったような顔をするところがあったので、孔子は諭 (さと)した。 「おまえに、わかるということは、どういうことか教えよう。 自分は何がわかっているか、また、何がわかっていないか、この区別がつくこと、それがわかるということなのだ」 『論語』 孔子の教えをまとめたもので、 日本には四世紀末に伝わった。 足利学校遺跡図書館藏 9 良いところは認めて…… ある時、孔子が顔回にいった。 「いったんもちいられたなら全力をだすが、認められなければ、じっと我慢している。 それができるのは、私とおまえぐらいなものだろうな」 そばできいていた子路は、だまっていられなかった。 「それなら、もし先生が大国の軍司令官になられた場合、誰を頼りにされますか」 「それはもちろん、勇者のおまえだよ」というこたえをあてにしてのことだったのだが、孔子はいった。 「素手 (手に何ももたないこと)でトラにたちむかったり、大河を歩いて渡ろうとするような、命知らずはごめんだね。 むしろ、臆病なほど注意深く、きっとうまくいくよう、充分な計画を立てる人間のほうが、頼りになる」 それでも孔子は、子路のよいところは、充分認めていて、こうもいった。 武王・文王の時代に勢力がさかんになったが、秦によってほろぼされた。 戦国七雄のひとつに数えられるほど、一時は強大になった。 子路は返事ができなかった。 すると孔子はいった。 「なぜこうこたえなかったのだ。 物事に熱中すると食事のことも忘れ、興がのると心配ごともふっとんでしまい、老いさきの短いのも忘れている男だ、と」 孔子は、ちょっぴり弟子に自分の宣伝をして、えらぶってみた感じである。 「子路の琴ときたら、私の家ではどうもね…」 孔子がこういうのをきいて、弟子たちは子路を甘くみるようになった。 すると孔子は、その弟子たちにいった。 「あれの腕は相当なものだ。 表座敷でなら、充分通用する。 まだ奥の間ではムリだといっただけた」 と、子路をかばってやったのである。 10 子路のいさましい最期 その子路は、孔子が十幾年もの天下放浪の旅をきりあげて魯 (ろ)にもどると、妻の兄のいる衛 (えい)という国へいって大臣の家老 (家来たちをまとめる役)になった。 今の河南省北部のあたりにあった。 内乱がつづいたためほろんだが、経済的にも文化面でも早くから発達していた。 ある時、その大臣の家は政治上の敵におそわれた。 それは衛 (えい)の上のほうの勢力争いにからんでのことだが、しらせをきいた子路は、真夜中なのに、たった一人で支配地から大臣の家へかけつけだ。 屋敷はもう敵に占領されたらしく、しずまりかえっていた。 自分の武勇に自信のある子路は、それを承知のうえで、力まかせに門をおしあけてなかへとびこんだ。 すると両側のくらがりから、剣がその頭にふりおろされた。 子路は頭をわられてたおれた。 かんむりのひもがちぎれ、白髪頭から血がふきだした。 大臣宅にのりこむ子路 敵に占領された大臣の屋敷に、 子路はひとりでかけつけたが…… 子路は、力をふりしぼって体をおこし、 「立派な人間は、死んでもかんむりをちゃんとかぶっていなくてはいけない」 そういって、ふるえる手で、ちぎれたひもをつなぎあわせ、かんむりを頭にのせてむすんでから息たえたという。 子路の死体はきりきざまれて塩づけ肉にされた。 それをきいた孔子は、家じゅうの塩づけ肉をすてさせた。 子路の最期を思い出すので、たえられなかったのである。 三十五年前、やくざ者でしかなかった子路が、大臣の家老になるまで成長し、正義のために戦って死んだことを思うと、人間にとって、勉強するとは、どんなに大切かということを、私たちに教えてくれる。 孔子よりさきに死に、自分で書いたものは残さなかったが、その子孫は栄えて人々から尊敬をうけた。 学問も徳も弟子のなかでは、ひときわすぐれており、孔子よりも三十才年下だった。 孔子はいう。 「顔回と話していると、いつまでたっても、うなずいてはかりいるので、ウスノロではないかと思うほどだ。 けれども、普段のくらしぶりをみていると、なにげないところに、ハッと思わせられることがよくある。 あれは、ウスノロどころではない」 孔子が子貢 (しこう)という弟子にたずねた。 「おまえ、顔回と自分とをくらべてみて、どちらが上だと思う」 「私など、とてもかないません。 彼は一をきいて十を知るのに、私はせいぜい一をきいて二を知る程度です」 「そのとおりだ。 じつは私も、おまえと同じく、あれにはかなわない」 顔回 顔回は学問をこのみ、 孔子の第一の弟子といわれた。 顔回のあばら屋の跡 中国曲阜の孔子廟内に石碑がたつ。 孔子はまた、こうもいう。 食事はいつも一杯のもりきり飯に、汁一杯。 住まいは路地裹のあばら家。 普通の人ならまいってしまう貧乏ぐらしだが、あれはむしろ、それを楽しみとしてやめようとはしない。 孔子の最愛の弟子だった。 その顔回は顔回で、先生の孔子を尊敬していう。 「先生をふりあおぐと、とても私の手のとどかない、高いところにいらっしゃる。 私がきりこむと、先生はとてもかたくて歯が立だない。 前のほうで姿をとらえたと思ったら、もう後に立っておられる。 とても、私のかなうお方ではない」 12 孔子の嘆き 顔回は孔子に二年さきたって死んだ。 「先生が生きていらっしゃるかぎり、私はお先には死にません」といっていたのだが、ふとした病気が、貧乏と栄養のたりない体をとらえてしまったのである。 それをきいた孔子は、ひどくなげいた。 「ああ、私は天からみはなされたのだ」 そういって、見栄も何も忘れて、泣きじゃくった。 「先生が、あんなに嘆き悲しまれるとは……」 と弟子がいうと、それを耳にした孔子はいった。 「ほかの者ならともかく、あの顔回が死んだのだ。 嘆き悲しまずにいられるか」 しばらくたって孔子は、顔回を思い出していった。 「本当におしい人を死なせたものだ。 とどまるところを知らずに前進する人だったが……」 そののち、魯の哀公が孔子にたずねた。 「弟子たちのうちで、しんから勉強好きなのはだれか」 「それは顔回です。 ひたすら学ぶことに心がけていました。 腹たちまぎれに人にやつあたりすることは、けっしてなかったし、同じあやまちを二度くりかえすこともありませんでした。 かわいそうに、はやく亡くなりました。 あれ以外に、本当に勉強好きな人がいるとは思えません」 孔子は早死にした顔回を、いつまでもおしんでいたのである。 13 人間らしい正直さとは…… ある日、孔子は子路ら四人の弟子とくつろいでいた。 「今日は、私が年上だからといって遠慮せず、みんなの考えをきかせてほしい。 もしも他人に認められたら、何をしたいかね」 子路が、まっさきにこたえた。 「私は困難な状態にある小国で働きたいと思います。 「私は、もっと小さな国でけっこうです。 弟子の能力くらべをしたとき、孔子は「政治のことは冉有と子路がすぐれている」といった。 孔子が「聖や仁の道をおこなうことにあきない」というと、かれは「それこそ、まねができません」といった。 最後は 曽晢 (そうせき)。 それまでひいていた琴を下において、立ちあがった。 「私の望みはもっと小さいのです。 春もさかりのころ、仕立てあがりの服をきて郊外へ散歩に出ます。 若者が数人、ほかに子供もいく人かまじえ、川辺を歩いたあと、風にふかれ、歌でもうたって帰りたいものです」 孔子もホッと、溜息をもらした。 「それなら、私もやってみたい」 孔子も、たまには学問のことを忘れて、のんびりしてみたかったのである。 人間らしくてよい。 人間らしいというと、つぎのような話もある。 楚の葉公が孔子に自慢した。 「私の国には、とても正直者がいます。 父親が、よそさまの羊を盗んだところ、すすんでうったえ出たほどです」 これにたいして、孔子はいった。 「私の国の正直者は、そうはしません。 父は子をかばい、子は父をかばいます。 この自然の情に従うところに、私はむしろ人間らしい正直さがあると思います」 春、川辺に遊ぶ 若者や子供たちと一緒に 郊外へ出て、春の風にふかれ、歌でもうたって 帰りたい、と曽皙(そうせき)はこたえた。 お金もうけもうまくて財産家であり、子路とともに孔子のよき相談相手であった。 「村じゅうの人から好かれるような人物なら、申し分ないと思いますが……」 「それは、どうかね」 「では、憎まれるくらいのほうが、よいのでしょうか」 「それも、どうかね。 村のよい人からは好かれ、悪い奴らからは憎まれる。 八方美人ではいけない。 よい人には好かれ、悪い人にはけむたがられるような人が、本当に立派だというのである。 その子貢が孔子にいった。 「他人からされては嫌だと思うことを、自分も他人にはしない。 私は、こういう人間になりたいと思います」 「それは、とてもむずかしいことだ。 おまえにできるかな?」 普通なら「よいことだ。 おおいに頑張れよ」というところだが、孔子はそうはいわなかった。 子貢が日ごろ、口先が達者で、実行がともなわないことが多かったので、たしなめたのである。 口が達者といえば、宰我 (さいが)という弟子も、口が達者だった。 その宰我が昼寝をしているところを孔子にみつかった。 孔子はいった。 私はこれまで、いうことが立派な人間なら、信用できるとおもっていた。 けれども今では、いうことだけが立派でも、行いを確かめないと安心できなくなった。 私をそうさせたのは宰我 (さいが)なのだ」 子張 (しちょう)が、自分の気持ちを正しく人に伝える方法についてたずねたところ、孔子はこうこたえた。 「嘘をいわず、いったことはかならず実行することだ。 そうすれば、たとえ野蛮人のあいだにいても、相手に自分の気持ちを正しく伝えることができる。 その逆だと、自分の住んでいるところでも、正しくは伝わらない」 最後に孔子の有名な言葉をすこしあげておこう」 「立派な人は自分を頼りにし、劣った人は他人をあてにする」 「自分よりも劣った人を友だちにしてはならない。 自分よりもすぐれた人を友だちにえらべ」 「どうしたらよいか、どうしたらよいかと、いつも自分て考える者でないと、私だってどうにもしてやれない」 「立派な大は仲よく自分の考えをぶつけあえるが、つまらない人は考えがちがうと、すぐ言い合いになる」 * * 孔子が死ぬと、弟fたちは、その墓のまわりに小屋をもうけて、三年間の 喪 (も)に服した。 普通は親子、夫婦、兄弟などのあいだでおこなう。 上=孔子廟 孔子をまつる孔子廟は、中国、鮮鮮、 日本各地にたてられている。 台湾・台北市。 左下=孔子の墓 中国曲阜の孔子廟内には、 立派な墓がたてられている。 右下=孔子銅像 台湾からおくられた銅像で、 高さは約4. 5メートルある。 湯島聖堂内。 ****************************************.

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**************************************** 孔子 二 孔子とその弟子たち (文・寺尾 善雄 絵・大塚 律子) 孔子は自分が仕えるにふさわしい主君を求めて、諸国を巡り歩いた。 しかし、その夢はかなえられない。 故郷に帰った孔子は、弟子たちの人間教育に情熱をもやす。 …… 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 孔子像 中国に古くから伝わる思想を深め、人間の理想 的な生きかたを「儒教」としてうちたてた。 故宮博物院蔵 孔子廟への道 大成殿から孔子廟までの道の両側には、 石人や石獣がならんでいる。 右=孔子手植えのマツ 孔子みずから植えたマツと伝えられている。 左=曲阜(きょくふ)の町 魯の国の古城壁跡や 孔子廟がのこる古い町である。 右=孔子像 人々の尊敬をうけて、皇帝のような姿につくられている。 曲阜の孔子廟大成殿内。 左上=曲阜(きょくふ)の孔子廟大成殿 孔子をまつるところでは、もっとも大きい。 1 まず生活を豊かに…… 天下 (てんか)をめぐっていた孔子と弟子の一行が、ある大きな町へさしかかった。 弟子が孔子にたずねた。 「たくさんの人ですね。 先生、これらの人をどうしたいと思われますか」 いつも「仁」とか「礼」とかを口にしている孔子のことだから、そういうことを教えたいというにちがいない。 弟子はそう思ったのだが、孔子のこたえは意外だった。 「まず生活を豊かにしてやりたい」 オヤオヤ、弟子はおどろいた。 「それでは、そのつぎには?」 「学問を教えてやりたい」 くうやくわずの人間に、仁も礼も学問もへったくれもないことを、孔子はよく知っていた。 人間にとって、生活が豊かになることが第一だからである。 今でもそうだ。 たくさんの弟子のなかには、ひまさえあれば、ゴロゴロ、ブラブラしている者もいたとみえ、孔子はこうもいっている。 「昼間から何もせずにノラクラしているとはこまったものだ。 ほれ、ゲームという遊びがあるだろう。 それでもしなさい。 頭の体操にもなるのだから、何もしないでボヤーッとしているよりは、ましだ」 聖人の代表のようにいわれている孔子が「ゲームでもしろ」というのはおもしろい。 仏教をはじめた シャカ、キリスト教をはじめた キリスト、ギリシアの哲学者 ソクラテスとこの 孔子である。 孔子は魯の国の歴史書である『春秋』を整理・編集したという。 当時、中国は春秋時代 (紀元前七七〇〜紀元前四〇三年)という乱れた世であった。 大きな国が小さな国を攻めてほろぼし、自分の領土にすることがさかんに行われ、大きな国どうしも戦いあうという、日本の戦国時代のような世の中だった。 はじめ一四〇あまりもあった国は、この頃にはめぼしい国は一〇いくつにへってしまっていた。 孔子の生まれた魯 (ろ)は小国だったので、いつも大国の侵略におびえていた。 年とってから孔子は、自分の一生、それも心の成長ぶりをつぎのように語っている。 「私は十五才で学問をはじめ、三十才、で独立した。 四十才で自分の方針に確信がもてた。 五十才で天からあたえられた使命を自覚した。 六十才で、だれの意見にも、すなおに耳をかたむけられるようになった。 そして七十才になると、自分をおさえる努力をしなくても、心の調和がたもて、自由な境地に達した」 これだけみると、孔子の一生はたいらでまっすぐだったようにみえるが、どうしてどうして、とても浮き沈みの多い、苦労の連続であった。 学問を身につけた三十才の孔子は、魯の倉庫番や家畜係というひくい職についた。 帳簿はきちんと整理され、家畜はよく育ったという。 三十三、四才の頃、周という国の都の洛邑 (らくゆう=今の洛陽)へ学問をしにいって、 老子という大学者に教えをうけた。 魯の政治をかってにうごかしたため、主君の昭公が討とうとしたが失敗した。 老子をたずねた孔子 孔子が老子に教えをうけたという場面をえがく。 孔子はこのとき、昭公 (しょうこう)のあとをおって斉へいった。 七年後、昭公は外国で死んだので、孔子も帰国した。 学者としての孔子の名前はようやよ高まり、入門する (弟子入りする)者も多くなった。 五十二才のとき、魯の定公 (ていこう)にもちいられて本格的に国政にあたり、大司寇 (だいしこう=法務大臣)にまで進んだ。 五十三才のとき、斉の主君と定公との国境での会見のおともをし、魯を小国とあなどっておどし、定公をとらえようとたくらんでいた斉を逆にやりこめて、功績をあげた。 五十五才になって、さきの外交上の手柄によって、孔子の政治家としての力は、人々に認められるようになった。 太公望ともよばれた呂尚(ろしょう)という人が、周の国の建国につとめた功績により、斉の国をあたえられた。 はじめは勢いがよかったが、秦の始皇帝にほろばされた。 定公も大臣たちも、斉 (せい)が期待したとおり、政治を忘れて、斉がおくりつけた踊り子たちに夢中になった。 五十六才になっていた孔子はそれをみて失望し、魯を見捨てた。 まことに政治家としては、ちょっとの間の栄光であった。 それから六十九才で祖国に帰るまでの十三年間、孔子はたくさんの弟子をつれて衛 (えい)・宋 (そう)・鄭 (てい)・陳 (ちん)・蔡 (さい)・楚 (そ)の国々を、次々にまわった。 魯ではたせなかった政治の理想を実現したいと思ったからだが、その希望はついにはたせず、老いた身でまた生まれた国の魯にもどった。 魯に帰ってからの孔子は、自分につかえてほしいとの哀公 (あいこう)のすすめもことわり、『書経 (しょきょう)』『詩経 (しきょう)』『春秋 (しゅんじゅう)』などの本の整理・編集と、弟子の教育にあたった。 七十一才のとき、長男にさきだたれ、その翌年には最愛の弟子の顔回 (がんかい)に死なれ、さらに勇敢な弟子の子路 (しろ)にも、衛の内乱にまきこまれて戦死された。 子路が死んだ年、 孔子自身も亡くなった。 3 ひろまる孔子の教え 孔子が死んだのち、弟子たちは全国へちらばって孔子の教えをひろめた。 これを「儒教」という。 儒教はのちに中国で最も大切で権威のある学問となり、教育はすべてその教えを基本とした。 それにつれて孔子の地位もあがり、とうとう「大成至聖文宣工」という工の位までおくられた。 孔子の生まれた魯の曲阜 (きょくふ)には、孔子廟という、立派な廟 (びょう=お墓)がたてられている。 一九八四年 (昭和五十九年)の春、私がたずねたときも、じつにたくさんの人がおとずれていたのには、びっくりした。 孔子はいまも、中国人の心のうちに生きているのだな、と思ったのであった。 その孔子のしたこと、いったことを中心に、弟子や諸国のえらい人との会話、弟子たち自身のしたこと、いったことなどを、孔子が死んだのちにまとめたのが、有名な『論語』である。 『論語』は世界で最も有名な古典の一つであり、もちろん儒教の第一の本である。 古く日本にも伝えられて、日本人の考え方に大きな影響をあたえてきた。 その中の有名な言葉は、名言として日本人に親しまれている。 「義 (ぎ)を見てせざるは勇 (ゆう)なきなり」 (正しいとわかっていてしないのは、勇気がないことだ) 「過 (あやま)ちては、すなわち改 (あらた)むるに憚 (はばか)るなかれ」 (間違ったとわかったら、すぐあらためなさい」 「過 (す)ぎたるは、なお及ばざるがごとし」 (やりすぎは、やりたりないのと同じで、どちらもよくない) 「過 (あやま)ちて改 (あらた)めざる、これを過 (あやま)ちという」 (あやまちをすることよりも、あやまったのにあらためないのが、本当のあやまちだ) 「性 (せい)、相近 (あいちか)し、習 (なら)い、相遠 (あいとお)し」 (人の生まれつきの性質は、誰でもにかよっているけれども、教養や習慣のちがいで、差がついてしまう) 「小人 (しょうにん)の過 (あやま)つや、かならず文 (かぎ)る」 (つまらない人間は失敗すると、とりつくろうことばかり考える) などである。 『論語』はこのように、人がこの世の中でくらしていくには、どんな心がまえが必要か、どんなことに気をつければよいか、他人にたいして、どういう気くばりをしなければならないのかなどについて、わかりやすくかかれている。 二五〇〇年後のいまでも役にたつのは、そのためである。 孔子のえらい点は、相手の性格におうじて、一番ふさわしい教え方をしていることである。 孔子像 江戸時代、水戸光圀に儒学を教えた朱舜水が明国(中国)から もち帰った像。 性質はあらっぽかったが、正直で勇気をこのんだ。 熱心に孔子につかえたが、争いにまきこまれて死んだ。 「教えをうけたら、すぐ実行しなければならないでしょうか」 とたずねたところ、孔子は、 「親に相談してからにせよ」 とこたえる。 ところが、同じ質問をした弟子の 冉有 (ぜんゆう)には、 「もちろんだ。 すぐ実行せよ」 と答えている。 同じ質問なのに、答えが違っているのを不思議に思ったべつの弟子が、そのわけをきくと、孔子は、 「子路は血気にはやるからたづなをひきしめ、冉有 (ぜんゆう)はひっこみじあんだから尻をひっぱたいたのだ」 と答えているのが、それである。 冉有(ぜんゆう) 孔子の高弟で、 とくに政治の面で すぐれた才能をしめした。 4 あせりと自信 前にもかいたとおり、孔子は十三年間も天下をまわった。 それはつかえるのにふさわしい主君をみつけ、自分の理想を実地にいかすためであった。 「私に政治をまかせてくれれば、一年で国の基礎をつくり、三年で効果をあげてみせるのに」といったり、弟子から、 「かりに宝玉が手元にあるとしたら、先生はこれをしまっておきますか、それとも目のきく商人に売りますか」 となぞをかけられて、 「もちろん宝のもちぐされは嫌だね。 私は目のきく買い手をまっているのだ」 とこたえたりしている。 また、あまり評判のよくない人から、仕えてくれないかと誘いがかかった時も、 「私は、苦いウリみたいに、いつまでも人にもぎとられずにぶらさがっていたくない」 といって、その誘いにのろうとしたこともある。 孔子は主君に仕えるのにあせっていたのである。 けれどもそのあせりは、立派な主君につかえて出世したい、楽をしたい、贅沢をしたいという個人的な欲望からではなくて、あくまでも乱れた世の中を平和にしたいという願いからだった。 だから、ある隠者 (いんじゃ=世間とのかかわりをやめて、野や山でひっそりくらしている賢者)から、 「こんな乱れた世の中を正しくしようなどと、むきになることはない。 そんなことを考えていると、命があぶないよ」と忠告されると、 「乱れた世だからこそ、正さなければいけない。 それが私の役目だ」 とこたえている。 かわら 魯の国から出土したもの。 この頃から 木材・金属・製陶などの手工業が発達した。 孔子が、 「世の中を救えるのは、私だけだ」という自信をもっていたことは、つぎの話でもわかる。 大国で商業が栄え、文化が発達したが、春秋の時代になるとおとろえ、ついに斉・楚・魏の連合軍に攻められてほろんだ。 「昔の聖人の教えは、私がひきついでいる。 いわば、私は天の申し子だ。 天がその教えをほろばすつもりなら、それを私に伝えるはずはない。 その教えを世にひろめようとしているこの私を、宋の連中がどうにもできるものか」 ところが孔子は、同じような目に、もう一回あっている。 これも宋の国へいったときのこと、孔子が主君にもちいられそうだときいた大臣の桓魋 (かんたい)は、もし孔子がつかえれば、自分はやめさせられるだろうと心配して、孔子を殺そうとした。 それを知った弟子が、 「危険ですから、はやくここを去りましょう」と勧めたところ、孔子はいった。 「私は天から、この世を正しくするよう命じぜられている。 そんな私にたいして、桓魋 (かんたい)のような者に何ができようか」 5 最も大切な心がけ 孔子が、弟子を教えるにあたって、いつもいっていたのは、 「教わったら、実行しなくてはいけない」ということである。 実行することを、むずかしい言葉でいえば「実践」である。 孔子にとって、実践のともなわない学問は、本当の学問とはいえなかった。 そこが理論だけのギリシア哲学とちがうところである。 『論語』の一番初めにも、 「教わったことをいつも実践する。 何とすばらしいことではないか」とかかれている、 だから孔子は、口先だけで実行しない者を嫌った。 「口のうまい者、うわべだけ立派な人に、本物はいない」 「本当に立派な人は、たとえ自分には損になっても、人のためによいことをするものだ」 「よいことを教えられたら、自分で実行すること。 それをせずに、すぐほかの人にしゃべってしまったら、そのよいことは自分の身につかない」 などと弟子をいましめている。 孔子の学校 琴をひいている。 心を養うということから、儒教では音楽を重視した。 では、孔子にとって、実行しなければならないこととは、何であったろうか。 その第一は「仁」 (じん)である。 仁とは、いつくしみ、憐れみ、情け、思いやりの気持ちのことで、仏教のいう「慈悲」、キリスト教の「愛」に近い。 こうした時代に、孔子が人を愛することを第一ととなえた思想は新鮮だった。 他人にたいするこのような気持ちをいつももってさえいれば、人と人との間はうまくいくというのである。 いくら世の中が進み、科学が発達しても、私たちが人間の世の中に生きているかぎり、一番大切な心がけではなかろうか。 つぎに孔子が大切だとしたのは、「徳」と「礼」とである。 徳とは他人から尊敬され、したわれ、頼りにされるような立派な品性をいう。 よく「あの人には徳がある」といわれる、あれである。 礼とは、物事を正しくおこなうことで、口のききかたや、行いを乱暴、ぶっきらぼう、つつけんどん、あらあらしくしないこと、「礼儀正しく」他人にむかうことである。 6 学問をして、実践する 孔子は、このようなことを身につけるためには、学問をすることが大切だといっている。 人から教わる。 自分で考える。 そして実践する。 この三つをいつも繰返しながら、だんだん本物の人間にならねばならない。 そのうちのどれが欠けても、本物にはなれないという。 「ひとつの村には、私のように立派な人はいるだろうが、私ほど学問好きな人はいまい」 「学んでも自分でよく考えなければ、本物にはならないし、いくら考えても学ばなければ、これまた本物にはなれない」 と、学問をすることの大切さを述べている。 政治を徳によっておこなえば、北極星がおなじ場所にいて、ほかの星がそのまわりをまわるように、みながしたうものだと孔子はいった。 魯の国の城壁跡 孔子がうまれ活躍したころの城壁跡が、 山東省の曲阜にのこる。 上に立つ人が、仁の心深く、徳があり、礼を心得て政治を行えば、しぜんによく治まる。 けれども、上に立つ人が権力や法律にはかりたよると、下の者は「つかまりさえしなければよい」とか、「うまくごまかしてやろう」という気になるばかりだ、といましめている。 徳治 (とくち)主義は、とりもなおさず、上に立つ人がまず自分を正すことである。 自分を正しくしないと、いくら命令をしても、下の者が従うわけはない。 だから徳治主義とは、上に立つ人がまず正しい人間になれという考え方なのである。 けれども、孔子のいたころは、国と国とが攻めあい、人と人とが殺しあう時代であった。 そんな時代には、力だけがものをいう。 いくら正しくても力がなければ滅びるほかはなく、みんな国も人も、生残るために強くなりたい、それだけを願っていた。 そんな時代だから、孔子の教えは「まだるっこしい」「今の世に役にたたない」と人々に思われた。 孔子の教えが世の中に認められるのは、天下が太平になった漢の時代に入ってからで、孔子が死んでから五〇〇年も後のことである。 古代中国の歴史のうつりかわりをしるしている。 人間味豊かな内容によって、今日でも広くよまれている。 「孔子には三〇〇〇人の弟子がおり、そのうち、一定の水準に達していた者は七二人いた」 とかいてあるが、三〇〇〇人は大げさで、実際は七、八十人だったらしい。 『論語』には、そのうちの約三〇人の名前が出てくる。 その中で一番よく登場するのは子路である。 子路は孔子よりも九才下で、弟子のなか、では最年長である。 武勇にすぐれ、気性も男らしく、さっぱりとして、まがったことの大きらいな人物であった。 その入門のいきさつがおもしろい。 赤いおんどりの羽根でかざったかんむりを横っちょにかぶり、腰の長剣をひねくりまわしながら孔子にいった。 『論語』には、子路のエピソードが数多く出てくる。 子路 もとはやくざだったが、 孔子にひかれて弟子となった。 「たとえばまがりくねった木でもな、きちんと線をひいてきり、ちゃんとけずれば、まっすぐな用材 (ようざい=材木)になる。 人間も同じことで、学問をすればしだいに本物になれるのだ」 「なるほど」 子路はうなずいたが、なおもいう。 「では、私は、まっすぐなものを例にだそう。 たとえば竹だ。 これをけずって矢にすれば、かたいものでもつき通してしまう。 どうだ」 「そのまっすぐな竹に羽根をつけ、先端にとがったやじりをつければ、矢はいっそうつきささるではないか。 人間の場合の学問も同じことだ。 どうだ、たいした得だろう」 子路はいすまいを正して、大きく一礼した。 「やっとわかりました。 私も学問をしたくなりました。 弟子にしてください」 8 わかるということ…… 根がまっすぐな人間だけに、いったんやるときめたら、子路は本気だった。 孔子から何かを教わると、それが実行できるようになるまでは、ほかのことに見向きもしなかった。 入門してからまもなくのこと、子路が琴をひきながら流行歌を口ずさんでいるのを耳にした孔子は、たわむれにほかの弟子にいった。 「子路はやはり、だめな男だな。 立派な音楽ではなくて流行歌をうたうとは」 それを、ほかの弟子からきいた子路は、後悔とはずかしさのあまり、食事も喉を通らなくなって痩せてしまった。 あまりのしょげぶりに孔子もかわいそうになって、 「間違いだとわかれば、それでよいのだ」 となだめるほかはなかった。 それで子路はやっと、元通りにもどったのだった。 ある時孔子が、しみじみと嘆いた。 いっそ、いかだにでものって海へ出ようか。 おまえなら喜んでついてきてくれるだろうね」 「はい、先生、喜んで」 先生は、自分を頼りにしてくださっているのだ……と子路はよろこび、孔子も、どこまでも自分と行動をともにしようとする子路をうれしく思った。 だが、やがていった。 いかだの材料をどうするつもりだね。 失意の日々も長くつづいたのである。 子路は、早のみこみで、わかっていないのに、わかったような顔をするところがあったので、孔子は諭 (さと)した。 「おまえに、わかるということは、どういうことか教えよう。 自分は何がわかっているか、また、何がわかっていないか、この区別がつくこと、それがわかるということなのだ」 『論語』 孔子の教えをまとめたもので、 日本には四世紀末に伝わった。 足利学校遺跡図書館藏 9 良いところは認めて…… ある時、孔子が顔回にいった。 「いったんもちいられたなら全力をだすが、認められなければ、じっと我慢している。 それができるのは、私とおまえぐらいなものだろうな」 そばできいていた子路は、だまっていられなかった。 「それなら、もし先生が大国の軍司令官になられた場合、誰を頼りにされますか」 「それはもちろん、勇者のおまえだよ」というこたえをあてにしてのことだったのだが、孔子はいった。 「素手 (手に何ももたないこと)でトラにたちむかったり、大河を歩いて渡ろうとするような、命知らずはごめんだね。 むしろ、臆病なほど注意深く、きっとうまくいくよう、充分な計画を立てる人間のほうが、頼りになる」 それでも孔子は、子路のよいところは、充分認めていて、こうもいった。 武王・文王の時代に勢力がさかんになったが、秦によってほろぼされた。 戦国七雄のひとつに数えられるほど、一時は強大になった。 子路は返事ができなかった。 すると孔子はいった。 「なぜこうこたえなかったのだ。 物事に熱中すると食事のことも忘れ、興がのると心配ごともふっとんでしまい、老いさきの短いのも忘れている男だ、と」 孔子は、ちょっぴり弟子に自分の宣伝をして、えらぶってみた感じである。 「子路の琴ときたら、私の家ではどうもね…」 孔子がこういうのをきいて、弟子たちは子路を甘くみるようになった。 すると孔子は、その弟子たちにいった。 「あれの腕は相当なものだ。 表座敷でなら、充分通用する。 まだ奥の間ではムリだといっただけた」 と、子路をかばってやったのである。 10 子路のいさましい最期 その子路は、孔子が十幾年もの天下放浪の旅をきりあげて魯 (ろ)にもどると、妻の兄のいる衛 (えい)という国へいって大臣の家老 (家来たちをまとめる役)になった。 今の河南省北部のあたりにあった。 内乱がつづいたためほろんだが、経済的にも文化面でも早くから発達していた。 ある時、その大臣の家は政治上の敵におそわれた。 それは衛 (えい)の上のほうの勢力争いにからんでのことだが、しらせをきいた子路は、真夜中なのに、たった一人で支配地から大臣の家へかけつけだ。 屋敷はもう敵に占領されたらしく、しずまりかえっていた。 自分の武勇に自信のある子路は、それを承知のうえで、力まかせに門をおしあけてなかへとびこんだ。 すると両側のくらがりから、剣がその頭にふりおろされた。 子路は頭をわられてたおれた。 かんむりのひもがちぎれ、白髪頭から血がふきだした。 大臣宅にのりこむ子路 敵に占領された大臣の屋敷に、 子路はひとりでかけつけたが…… 子路は、力をふりしぼって体をおこし、 「立派な人間は、死んでもかんむりをちゃんとかぶっていなくてはいけない」 そういって、ふるえる手で、ちぎれたひもをつなぎあわせ、かんむりを頭にのせてむすんでから息たえたという。 子路の死体はきりきざまれて塩づけ肉にされた。 それをきいた孔子は、家じゅうの塩づけ肉をすてさせた。 子路の最期を思い出すので、たえられなかったのである。 三十五年前、やくざ者でしかなかった子路が、大臣の家老になるまで成長し、正義のために戦って死んだことを思うと、人間にとって、勉強するとは、どんなに大切かということを、私たちに教えてくれる。 孔子よりさきに死に、自分で書いたものは残さなかったが、その子孫は栄えて人々から尊敬をうけた。 学問も徳も弟子のなかでは、ひときわすぐれており、孔子よりも三十才年下だった。 孔子はいう。 「顔回と話していると、いつまでたっても、うなずいてはかりいるので、ウスノロではないかと思うほどだ。 けれども、普段のくらしぶりをみていると、なにげないところに、ハッと思わせられることがよくある。 あれは、ウスノロどころではない」 孔子が子貢 (しこう)という弟子にたずねた。 「おまえ、顔回と自分とをくらべてみて、どちらが上だと思う」 「私など、とてもかないません。 彼は一をきいて十を知るのに、私はせいぜい一をきいて二を知る程度です」 「そのとおりだ。 じつは私も、おまえと同じく、あれにはかなわない」 顔回 顔回は学問をこのみ、 孔子の第一の弟子といわれた。 顔回のあばら屋の跡 中国曲阜の孔子廟内に石碑がたつ。 孔子はまた、こうもいう。 食事はいつも一杯のもりきり飯に、汁一杯。 住まいは路地裹のあばら家。 普通の人ならまいってしまう貧乏ぐらしだが、あれはむしろ、それを楽しみとしてやめようとはしない。 孔子の最愛の弟子だった。 その顔回は顔回で、先生の孔子を尊敬していう。 「先生をふりあおぐと、とても私の手のとどかない、高いところにいらっしゃる。 私がきりこむと、先生はとてもかたくて歯が立だない。 前のほうで姿をとらえたと思ったら、もう後に立っておられる。 とても、私のかなうお方ではない」 12 孔子の嘆き 顔回は孔子に二年さきたって死んだ。 「先生が生きていらっしゃるかぎり、私はお先には死にません」といっていたのだが、ふとした病気が、貧乏と栄養のたりない体をとらえてしまったのである。 それをきいた孔子は、ひどくなげいた。 「ああ、私は天からみはなされたのだ」 そういって、見栄も何も忘れて、泣きじゃくった。 「先生が、あんなに嘆き悲しまれるとは……」 と弟子がいうと、それを耳にした孔子はいった。 「ほかの者ならともかく、あの顔回が死んだのだ。 嘆き悲しまずにいられるか」 しばらくたって孔子は、顔回を思い出していった。 「本当におしい人を死なせたものだ。 とどまるところを知らずに前進する人だったが……」 そののち、魯の哀公が孔子にたずねた。 「弟子たちのうちで、しんから勉強好きなのはだれか」 「それは顔回です。 ひたすら学ぶことに心がけていました。 腹たちまぎれに人にやつあたりすることは、けっしてなかったし、同じあやまちを二度くりかえすこともありませんでした。 かわいそうに、はやく亡くなりました。 あれ以外に、本当に勉強好きな人がいるとは思えません」 孔子は早死にした顔回を、いつまでもおしんでいたのである。 13 人間らしい正直さとは…… ある日、孔子は子路ら四人の弟子とくつろいでいた。 「今日は、私が年上だからといって遠慮せず、みんなの考えをきかせてほしい。 もしも他人に認められたら、何をしたいかね」 子路が、まっさきにこたえた。 「私は困難な状態にある小国で働きたいと思います。 「私は、もっと小さな国でけっこうです。 弟子の能力くらべをしたとき、孔子は「政治のことは冉有と子路がすぐれている」といった。 孔子が「聖や仁の道をおこなうことにあきない」というと、かれは「それこそ、まねができません」といった。 最後は 曽晢 (そうせき)。 それまでひいていた琴を下において、立ちあがった。 「私の望みはもっと小さいのです。 春もさかりのころ、仕立てあがりの服をきて郊外へ散歩に出ます。 若者が数人、ほかに子供もいく人かまじえ、川辺を歩いたあと、風にふかれ、歌でもうたって帰りたいものです」 孔子もホッと、溜息をもらした。 「それなら、私もやってみたい」 孔子も、たまには学問のことを忘れて、のんびりしてみたかったのである。 人間らしくてよい。 人間らしいというと、つぎのような話もある。 楚の葉公が孔子に自慢した。 「私の国には、とても正直者がいます。 父親が、よそさまの羊を盗んだところ、すすんでうったえ出たほどです」 これにたいして、孔子はいった。 「私の国の正直者は、そうはしません。 父は子をかばい、子は父をかばいます。 この自然の情に従うところに、私はむしろ人間らしい正直さがあると思います」 春、川辺に遊ぶ 若者や子供たちと一緒に 郊外へ出て、春の風にふかれ、歌でもうたって 帰りたい、と曽皙(そうせき)はこたえた。 お金もうけもうまくて財産家であり、子路とともに孔子のよき相談相手であった。 「村じゅうの人から好かれるような人物なら、申し分ないと思いますが……」 「それは、どうかね」 「では、憎まれるくらいのほうが、よいのでしょうか」 「それも、どうかね。 村のよい人からは好かれ、悪い奴らからは憎まれる。 八方美人ではいけない。 よい人には好かれ、悪い人にはけむたがられるような人が、本当に立派だというのである。 その子貢が孔子にいった。 「他人からされては嫌だと思うことを、自分も他人にはしない。 私は、こういう人間になりたいと思います」 「それは、とてもむずかしいことだ。 おまえにできるかな?」 普通なら「よいことだ。 おおいに頑張れよ」というところだが、孔子はそうはいわなかった。 子貢が日ごろ、口先が達者で、実行がともなわないことが多かったので、たしなめたのである。 口が達者といえば、宰我 (さいが)という弟子も、口が達者だった。 その宰我が昼寝をしているところを孔子にみつかった。 孔子はいった。 私はこれまで、いうことが立派な人間なら、信用できるとおもっていた。 けれども今では、いうことだけが立派でも、行いを確かめないと安心できなくなった。 私をそうさせたのは宰我 (さいが)なのだ」 子張 (しちょう)が、自分の気持ちを正しく人に伝える方法についてたずねたところ、孔子はこうこたえた。 「嘘をいわず、いったことはかならず実行することだ。 そうすれば、たとえ野蛮人のあいだにいても、相手に自分の気持ちを正しく伝えることができる。 その逆だと、自分の住んでいるところでも、正しくは伝わらない」 最後に孔子の有名な言葉をすこしあげておこう」 「立派な人は自分を頼りにし、劣った人は他人をあてにする」 「自分よりも劣った人を友だちにしてはならない。 自分よりもすぐれた人を友だちにえらべ」 「どうしたらよいか、どうしたらよいかと、いつも自分て考える者でないと、私だってどうにもしてやれない」 「立派な大は仲よく自分の考えをぶつけあえるが、つまらない人は考えがちがうと、すぐ言い合いになる」 * * 孔子が死ぬと、弟fたちは、その墓のまわりに小屋をもうけて、三年間の 喪 (も)に服した。 普通は親子、夫婦、兄弟などのあいだでおこなう。 上=孔子廟 孔子をまつる孔子廟は、中国、鮮鮮、 日本各地にたてられている。 台湾・台北市。 左下=孔子の墓 中国曲阜の孔子廟内には、 立派な墓がたてられている。 右下=孔子銅像 台湾からおくられた銅像で、 高さは約4. 5メートルある。 湯島聖堂内。 ****************************************.

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